第3話 『青い光』
背中に、衝撃。
いや、衝撃なんて言葉じゃ、まるで足りない。熱した鉄の棒を、体の真ん中に、後ろからまっすぐ、通されたみたいだった。
一瞬、何が起きたのか、わからなかった。
痛みは、少し遅れて、やってきた。遅れて、そして——理解した瞬間に、爆発した。頭のてっぺんまで、白く塗りつぶすような、激痛。悲鳴すら出てこない。
視界の、すぐ下。自分の腹の真ん中から、見慣れない何かが、突き出ている。
腕だ。
他人の手が、僕のお腹から、生えている。
「うぉあえ?」
「あ」とも「え」ともつかない、間抜けな音だけが、喉の奥から漏れた。頭が、認めることを拒んでいる。これは、僕の体じゃない。これは、僕に起きていることじゃ、ない。
息を、吸おうとする。でも、うまく、吸えなかった。ひゅう、ひゅう、と、自分の喉が、聞いたことのない音を立てている。口の中に、鉄の味が、じわりと広がった。
現実だ。これは、まぎれもなく、現実に、起きている。そう理解した瞬間、全身が、がくがくと、震えだした。
背後を、振り返る勇気なんて、なかった。振り返ってしまえば、この非現実が、本物になってしまう気がして。それでも、腹から生えた腕は、確かに、そこにあった。
「まだ意識あるんだ。結構タフだねぇ、君」
耳のすぐ後ろで、あの粘つく声が、囁いた。
腕が、ずるりと、引き抜かれる。
その瞬間、体を支えていた芯を、丸ごと抜かれたみたいだった。僕はそのまま、糸の切れた人形みたいに、地面へと、崩れ落ちる。
冷たい。
地面が、じゃない。僕の体の真ん中から、いちばん大事な熱が、とめどなく、流れ出していく。その熱が抜けたぶんだけ、僕は、急速に、冷たくなっていった。
(いやだ)
震える指で、アスファルトを掻いた。爪が割れるのも構わず、少しでも、この男から、離れたくて。でも、腰から下が、まるで、言うことを聞かない。
(いやだ、いやだ。死にたく、ない)
男が、僕の横に、ゆっくりとしゃがみ込む気配がした。まるで、弱った虫を、上から眺めて楽しむみたいに。
「そんな顔しないでよ。恨みっこなしだって。君のそれ——タイランってやつをさ、僕がありがたく、もらうだけの話なんだから」
何を言っているのか、わからない。わからないのに、その言葉の一つ一つが、氷みたいに、冷たかった。
「みんな、生きるのに、必死なんだよ。ここではね」
男の指先から、ぽたり、ぽたりと、赤い雫が落ちる。僕の、血だ。それを、汚らわしいものでも見るみたいに、男はハンカチで、丁寧に拭った。この期に及んで、その仕草だけが、やけに鮮明に、目に焼きついた。
こんな、わけもわからないまま。誰にも、さよならすら、言えないまま——僕は、死ぬのか。
——ああ、そうだ。
今朝、僕は母さんに、行ってきますも言わなかった。
「毎日一限でしょ」って、あの小言に、まともに返事もしないで、飛び出してきてしまった。あんなの、いつだって、また聞けると思っていたから。
あのハンバーグ屋に、もう一度行きたかった。菊坂の焦がし味噌ラーメンも。結局、友達らしい友達も、一人も作れなかった。この先、作るつもりだったのに。いつか、なんて思っているうちに。
縁側で、とっくに亡くなった爺ちゃんと食べた、冷たいスイカの味を、ふいに思い出した。あんなに当たり前だと思っていた時間が、どうして今になって、こんなにも鮮やかに蘇るんだろう。
もっと、生きたかった。
特別な何かに、なれなくてもいい。ただ、あの、なんてことのない毎日の続きを、もう少しだけ、歩きたかった。
僕は、何者にもなれなかった。取り柄も、夢も、大切な誰かも、何ひとつ、掴めないまま。それでも——それでも、生きていたかった。こんなに強く、そう願う日が来るなんて、思ってもみなかった。
涙か、血か。どちらともつかないもので、視界が、ぐちゃぐちゃに、滲んでいく。
「ごめんねぇ。本当はもっと、じいさんとかが、良かったんだけどさ。まぁ、贅沢は、言えないか」
男の声が、遠い。世界の音が、耳の奥のほうから、一つずつ、順番に、落ちていく。
ああ、僕は、死ぬんだ。
さっき一度、死にかけたと、思ったのに。今度は、本当に。
——その、時だった。
薄れていく意識の、いちばん、奥のほう。
毎晩見る、あの雷が。
ぱち、と、小さく、爆ぜた。
まるで、こんな時にまで、何かを思い出せと、急かすみたいに。もう少しで、手が届く——そんな、何か。けれど、もう、指一本、動かせない。
思い出すも何も。僕には、最初から、何も——。
「——見つけた」
凛とした声が、その静けさを、まっすぐに、裂いた。
それと同時に、滲んだ視界の端が、青く、光る。冷たくて、それでいて、ひどく綺麗な光だった。
ぼやけた視界の、その先。倒れた僕と、あの男の間に、いつのまにか、誰かが、立っている。
長い、黒髪。細い、背中。
こんな時なのに——僕は、その後ろ姿から、どうしても、目を離せなかった。
男が、何か言おうとした。「なっ——」とか、そんな、声だった気がする。
でも、それが、言葉になることは、なかった。
青い光が、一度、強く、瞬く。
次に僕の目に映ったのは、地面に落ちた、鮮やかな金色だった。血に濡れた、あの男の、髪。それが、彼女の足元に、転がっている。霞んでいく頭は、その光景の意味を、うまく、繋げられない。
黒髪の彼女が、ゆっくりと、こちらを振り向く。
逆光で、その顔は、よく見えなかった。ただ、まっすぐに僕を捉えた、その瞳が。ぞっとするほど、鋭かったことだけは、わかった。
彼女が、こちらへ駆け寄ってくる。僕のかたわらに膝をつき、腹の傷に、そっと手をかざした。ひやりと、あの青い光が、傷口を包み込む。とめどなく流れ出ていた熱が、ほんの少しだけ、せき止められた気がした。
その手際は、驚くほど、迷いがなかった。今まで何人も、こうして救ってきたのだろう。そう思わせる、慣れた手つき。あれだけの荒事の直後だというのに、その指先は、少しも、震えていない。
「……プルセも、なし。ランクも、ないに等しい。こんな、落ちたばかりの子を、狩るなんて」
彼女が、小さく、呟く。その声には、僕への戸惑いと、それ以上に——無抵抗の人を手にかけようとした静かな、怒りが、滲んでいた。
「まったく。……大層な“選ばれし者”が、聞いて呆れる」
吐き捨てるような、その一言に。彼女が、あの連中を、心の底から嫌っていることが、伝わってきた。
「しっかりしなさい。……こんなところで、まだ逝かせない」
強い声だった。まるで、僕なんかのために、本気で怒ってくれているみたいな。
こんなに必死になってくれる人がいるなんて。会ったばかりの、名前も知らない、僕なんかのために。
不思議と、怖くはなかった。
ありがとう、と。せめて、それだけでも言いたかった。あなたは誰なんですかと。訊きたいことは山ほどあったのに。でも、もう、唇が動いてくれない。
伸ばそうとした手が力尽きて、落ちる。もっと、彼女の顔をよく見たかったのに。
意識が、底のない暗闇に、静かに吸い込まれていく。
遠のく寸前、彼女が、僕の体を、壊れ物みたいに、そっと抱え上げるのがわかった。冷えきった体に伝わる、かすかな体温が、やけに優しかった。
暗闇の底で、最後にもう一度、あの雷が、遠く、光った気がした。まるで、この人を知っていると言いたげに。
ずっと遠くで、誰かが、僕を呼んでいる。名前も知らないはずの僕に、必死に呼びかける声がする。
それが、誰の声だったのか。
確かめる前に——僕の意識は、ふつりと、途切れた。




