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やり直すほど、弱くなる ~死に戻りの代償は寿命。無能の僕が『英雄の再来』と囁かれる理由を、僕だけが知らない~  作者: ふゆう
第一章 無能の始まり

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第2話 『静止した街』

止まった車のフロントガラスに、間抜けな顔をした自分が映っていた。


三十センチ先。あと少し反応が遅ければ、この顔は今ごろ、ぐしゃぐしゃになっていたはずだ。そう理解した瞬間、遅れてやってきた恐怖で、膝がかたかたと笑い出した。


「……なんだよ、これ」


こぼれた声が、やけに大きく響く。


顔を上げて、僕はもう一度、それを見た。


さっきまで確かにそこにいた人の波が、丸ごと消えていた。歩道を埋めていたサラリーマンも、スマホを覗きながら歩く学生も、信号待ちの群れも、全部。いや、消えたんじゃない。止まっているのは車だけで、人は、初めからいなかったみたいに、いない。


見上げれば、一羽の鳩が、羽ばたく形のまま空中で固まっている。ビルの隙間から差す西日も、琥珀色のまま動かない。どこかの店先で倒れたのだろうペットボトルが、床につく寸前で、宙に浮いていた。


恐る恐る、目の前の車のボンネットに、手を触れてみる。


冷たい。硬い。金属の感触は、確かにそこにある。けれど押しても、叩いても、びくともしない。まるで世界そのものが、一枚の分厚い硝子の中に、丸ごと閉じ込められてしまったみたいだった。


風がない。音もない。呼吸はできるのに、空気が流れている実感が、まるでない。世界から、僕という一人ぶんだけを残して、他の全部が丁寧に抜き取られてしまったみたいだった。


ポケットから、スマホを取り出す。震える指で、母さんの番号を呼び出した。けれど、画面の上のアンテナは、一本残らず消えている。圏外。時刻の表示は、僕がここへ落ちる直前の時間で、ぴたりと止まったままだった。


「……誰か。誰か、いませんか」


思いきって、声を張り上げてみる。


でも、その声は、どこにも反響しなかった。分厚い綿に吸い込まれるみたいに、静寂の中へ、あっけなく溶けて消える。返ってくるのは、自分の心臓の音だけだった。


(……黄泉、とかかな)


いよいよ現実逃避も極まって、そんなことを考える。


(いやいや。もし天国だったら、天使の一人くらい、出迎えに来てくれてもいいだろ。むしろ来てくれ。できれば可愛い子で、あわよくば僕の身の上に、同情的な——)


そんな下らない妄想で、自分をごまかしていられたのは、たぶん、最初の五分だけだった。


歩いても、歩いても、誰もいない。


コツ、コツ、と、自分の足音だけが、背後をついてくる。それが次第に、自分のものじゃない、誰かの足音みたいに聞こえてきて、僕は何度も振り返っては、そこに誰もいないことを確かめた。


誰もいない、という事実が、これほど怖いものだとは、思わなかった。誰かに会いたい。ほんの少し前まで、あれほど鬱陶しく思っていた人混みが、今は喉から手が出るほど、恋しかった。


歩きながら、僕は何度も、自分の頬をつねった。夢なら覚めてくれ。悪い冗談なら、もう十分だ。けれど、つねった頬は、ちゃんと痛くて。この馬鹿げた光景は、どこまでも現実の顔をしていた。


こういうのは、よくない。立ち止まったら、もう二度と足が動かなくなる気がする。だから僕は意味もなく歩き続けた。行き先なんて、あるはずもないのに。


時々、閉まった店の扉に手をかけてみる。けれど、どれも硝子の中の絵みたいに固く閉ざされていて、開くものは、一つもなかった。逃げ込める場所も、隠れられる場所も、この街には、どこにもない。


どれくらい経っただろうか。三十分か、四十分か。


そこで、僕はおかしなことに気づいた。


寒い。


「……いや、なんで。こんなに歩いてるのに」


汗ばむどころか、指先から順に、体温が抜けていく。真夏のはずの街で、吐いた息が、うっすら白い。無意識にさすった二の腕は、自分の手のひらよりも、ずっと冷たかった。


歩けば、温まるはずだ。そう思って、足を速める。でも、寒さは、増していく一方だった。まるで、体の内側から、大事な火を、一つずつ消されていくみたいに。


歯の根が、合わなくなってくる。腕をさすっても、擦っても、指先の感覚が、どんどん遠のいていく。このままだと、まずい。理屈じゃなく、命の芯のあたりが、そう警鐘を鳴らしていた。


意味がわからない。今日はもう、わからないことばかりだ。


そして——ふと気づけば、頭の隅の一部だけが、場違いなほど冷静だった。


(開けた場所は避けろ。まず、身を隠せる遮蔽を探せ)


……は?


自分の思考のはずなのに、まるで他人の声みたいだった。しかも、その声は、妙に、慣れている。身を隠すだの、遮蔽だの——野球部でずっとベンチを温めていた僕の人生に、そんな物騒な知識が、あるわけがない。


ただの、逃げ腰が見せた妄想だ。そう決めつけて、僕は頭を振った。


その、時だった。


カツン。


足が、止まる。


カツン、カツン。


僕の足音じゃない。硬く、甲高い音。革靴の踵が地面を叩く音が、まっすぐこちらへ近づいてくる。


心臓が、跳ねた。


振り向くと、金髪の男が立っていた。


細身で、背が高い。ドクロを象ったアクセサリーに、先の尖った革靴。少しだけ時代遅れな、それでいて妙に堂に入った装いだ。誰もいないこの世界で、ようやく出会えた、生きた“人”。


安堵で、勝手に、口角が上がった。助かった、と、本気で思ってしまった。


「あっ、あの、すみませ——」


「あぁ〜、もしかしてぇ。君ぃ、リミトロフなのかなぁ?」


伸ばしかけた言葉が、途中で凍りついた。


「プルセ、付けてないよねぇ? ないよねぇ??」


男は、笑っていた。にちゃ、と粘つくような笑みを浮かべて、僕の全身を、上から下まで、舐めるように見ている。その目には、親しみも、はっきりした敵意すら、ない。


あるのはただ——値踏みだった。ちょうどいい獲物を見つけた、という、あの顔。


背筋が、ぞくりと粟立つ。


生まれて初めて、“食われる側”に回った感覚。それを、本能のほうが先に理解してしまって、さっきまで必死に抑えていた恐怖が、一気に、喉元まで噴き上げた。


腰から力が抜け、僕はその場に、みっともなく尻餅をついた。逃げなきゃ、と頭ではわかっているのに、足が、一ミリも言うことを聞かない。


(なんで。なんで、こんなことに)


ついさっきまで、僕はただ、一限を落として憂鬱がっていただけの、どこにでもいる大学生だったはずだ。それが、どうして——こんな、得体の知れない男に、命を値踏みされているんだ。


じわりと、涙が滲んできた。


「今日はツイてるなぁ。ちょうどそろそろ、僕のタイランが上がる頃合いだったんだよねぇ」


何を言っているのか、わからない。


リミトロフ。プルセ。タイラン。知らない言葉ばかりなのに、そのどれもが、僕の“死”に、まっすぐ繋がっていることだけは、なぜか、肌でわかってしまう。


「ごめんねぇ、君に恨みとかは、別にないんだけどさ」


「ま、まって——」


掠れた声で、僕は懇願した。何を言えばいいのかも、わからないまま。ただ、死にたくない、その一心で。


でも、男は、僕の言葉なんて、最初から聞いちゃいなかった。


男が、革靴の踵を、かつ、と鳴らした。


「——ただ、生きるためだから。弱肉強食ってやつ、さ」


爪先が、ちかりと光る。


そう認識した次の瞬間には、もう——男の姿が、目の前から、掻き消えていた。


まるで、最初から、そこにいなかったみたいに。


氷のような予感が、背筋を走り抜ける。


振り向くよりも早く、頭の奥で、毎晩見るあの夢の雷が、ばちん、と音を立てて、弾けた気がした。まるで、こんな時にまで、僕に何かを、叫ぼうとするみたいに。


——うしろだ。


そう気づいたときには、きっと、もう。

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