第2話 『静止した街』
止まった車のフロントガラスに、間抜けな顔をした自分が映っていた。
三十センチ先。あと少し反応が遅ければ、この顔は今ごろ、ぐしゃぐしゃになっていたはずだ。そう理解した瞬間、遅れてやってきた恐怖で、膝がかたかたと笑い出した。
「……なんだよ、これ」
こぼれた声が、やけに大きく響く。
顔を上げて、僕はもう一度、それを見た。
さっきまで確かにそこにいた人の波が、丸ごと消えていた。歩道を埋めていたサラリーマンも、スマホを覗きながら歩く学生も、信号待ちの群れも、全部。いや、消えたんじゃない。止まっているのは車だけで、人は、初めからいなかったみたいに、いない。
見上げれば、一羽の鳩が、羽ばたく形のまま空中で固まっている。ビルの隙間から差す西日も、琥珀色のまま動かない。どこかの店先で倒れたのだろうペットボトルが、床につく寸前で、宙に浮いていた。
恐る恐る、目の前の車のボンネットに、手を触れてみる。
冷たい。硬い。金属の感触は、確かにそこにある。けれど押しても、叩いても、びくともしない。まるで世界そのものが、一枚の分厚い硝子の中に、丸ごと閉じ込められてしまったみたいだった。
風がない。音もない。呼吸はできるのに、空気が流れている実感が、まるでない。世界から、僕という一人ぶんだけを残して、他の全部が丁寧に抜き取られてしまったみたいだった。
ポケットから、スマホを取り出す。震える指で、母さんの番号を呼び出した。けれど、画面の上のアンテナは、一本残らず消えている。圏外。時刻の表示は、僕がここへ落ちる直前の時間で、ぴたりと止まったままだった。
「……誰か。誰か、いませんか」
思いきって、声を張り上げてみる。
でも、その声は、どこにも反響しなかった。分厚い綿に吸い込まれるみたいに、静寂の中へ、あっけなく溶けて消える。返ってくるのは、自分の心臓の音だけだった。
(……黄泉、とかかな)
いよいよ現実逃避も極まって、そんなことを考える。
(いやいや。もし天国だったら、天使の一人くらい、出迎えに来てくれてもいいだろ。むしろ来てくれ。できれば可愛い子で、あわよくば僕の身の上に、同情的な——)
そんな下らない妄想で、自分をごまかしていられたのは、たぶん、最初の五分だけだった。
歩いても、歩いても、誰もいない。
コツ、コツ、と、自分の足音だけが、背後をついてくる。それが次第に、自分のものじゃない、誰かの足音みたいに聞こえてきて、僕は何度も振り返っては、そこに誰もいないことを確かめた。
誰もいない、という事実が、これほど怖いものだとは、思わなかった。誰かに会いたい。ほんの少し前まで、あれほど鬱陶しく思っていた人混みが、今は喉から手が出るほど、恋しかった。
歩きながら、僕は何度も、自分の頬をつねった。夢なら覚めてくれ。悪い冗談なら、もう十分だ。けれど、つねった頬は、ちゃんと痛くて。この馬鹿げた光景は、どこまでも現実の顔をしていた。
こういうのは、よくない。立ち止まったら、もう二度と足が動かなくなる気がする。だから僕は意味もなく歩き続けた。行き先なんて、あるはずもないのに。
時々、閉まった店の扉に手をかけてみる。けれど、どれも硝子の中の絵みたいに固く閉ざされていて、開くものは、一つもなかった。逃げ込める場所も、隠れられる場所も、この街には、どこにもない。
どれくらい経っただろうか。三十分か、四十分か。
そこで、僕はおかしなことに気づいた。
寒い。
「……いや、なんで。こんなに歩いてるのに」
汗ばむどころか、指先から順に、体温が抜けていく。真夏のはずの街で、吐いた息が、うっすら白い。無意識にさすった二の腕は、自分の手のひらよりも、ずっと冷たかった。
歩けば、温まるはずだ。そう思って、足を速める。でも、寒さは、増していく一方だった。まるで、体の内側から、大事な火を、一つずつ消されていくみたいに。
歯の根が、合わなくなってくる。腕をさすっても、擦っても、指先の感覚が、どんどん遠のいていく。このままだと、まずい。理屈じゃなく、命の芯のあたりが、そう警鐘を鳴らしていた。
意味がわからない。今日はもう、わからないことばかりだ。
そして——ふと気づけば、頭の隅の一部だけが、場違いなほど冷静だった。
(開けた場所は避けろ。まず、身を隠せる遮蔽を探せ)
……は?
自分の思考のはずなのに、まるで他人の声みたいだった。しかも、その声は、妙に、慣れている。身を隠すだの、遮蔽だの——野球部でずっとベンチを温めていた僕の人生に、そんな物騒な知識が、あるわけがない。
ただの、逃げ腰が見せた妄想だ。そう決めつけて、僕は頭を振った。
その、時だった。
カツン。
足が、止まる。
カツン、カツン。
僕の足音じゃない。硬く、甲高い音。革靴の踵が地面を叩く音が、まっすぐこちらへ近づいてくる。
心臓が、跳ねた。
振り向くと、金髪の男が立っていた。
細身で、背が高い。ドクロを象ったアクセサリーに、先の尖った革靴。少しだけ時代遅れな、それでいて妙に堂に入った装いだ。誰もいないこの世界で、ようやく出会えた、生きた“人”。
安堵で、勝手に、口角が上がった。助かった、と、本気で思ってしまった。
「あっ、あの、すみませ——」
「あぁ〜、もしかしてぇ。君ぃ、リミトロフなのかなぁ?」
伸ばしかけた言葉が、途中で凍りついた。
「プルセ、付けてないよねぇ? ないよねぇ??」
男は、笑っていた。にちゃ、と粘つくような笑みを浮かべて、僕の全身を、上から下まで、舐めるように見ている。その目には、親しみも、はっきりした敵意すら、ない。
あるのはただ——値踏みだった。ちょうどいい獲物を見つけた、という、あの顔。
背筋が、ぞくりと粟立つ。
生まれて初めて、“食われる側”に回った感覚。それを、本能のほうが先に理解してしまって、さっきまで必死に抑えていた恐怖が、一気に、喉元まで噴き上げた。
腰から力が抜け、僕はその場に、みっともなく尻餅をついた。逃げなきゃ、と頭ではわかっているのに、足が、一ミリも言うことを聞かない。
(なんで。なんで、こんなことに)
ついさっきまで、僕はただ、一限を落として憂鬱がっていただけの、どこにでもいる大学生だったはずだ。それが、どうして——こんな、得体の知れない男に、命を値踏みされているんだ。
じわりと、涙が滲んできた。
「今日はツイてるなぁ。ちょうどそろそろ、僕のタイランが上がる頃合いだったんだよねぇ」
何を言っているのか、わからない。
リミトロフ。プルセ。タイラン。知らない言葉ばかりなのに、そのどれもが、僕の“死”に、まっすぐ繋がっていることだけは、なぜか、肌でわかってしまう。
「ごめんねぇ、君に恨みとかは、別にないんだけどさ」
「ま、まって——」
掠れた声で、僕は懇願した。何を言えばいいのかも、わからないまま。ただ、死にたくない、その一心で。
でも、男は、僕の言葉なんて、最初から聞いちゃいなかった。
男が、革靴の踵を、かつ、と鳴らした。
「——ただ、生きるためだから。弱肉強食ってやつ、さ」
爪先が、ちかりと光る。
そう認識した次の瞬間には、もう——男の姿が、目の前から、掻き消えていた。
まるで、最初から、そこにいなかったみたいに。
氷のような予感が、背筋を走り抜ける。
振り向くよりも早く、頭の奥で、毎晩見るあの夢の雷が、ばちん、と音を立てて、弾けた気がした。まるで、こんな時にまで、僕に何かを、叫ぼうとするみたいに。
——うしろだ。
そう気づいたときには、きっと、もう。




