第34話『裏返らない札』
食堂の入口に、木の板が掛かっている。
そこに、隊ごとの札がぶら下がっていた。下に出ている隊は表。戻ってきたら、誰かが裏に返す。それだけの仕組みだ。
今まで、一度も気にしたことがなかった。
札は四枚あって、三枚は裏返っていた。
一枚だけが、表のままだった。
*
「先輩! こっちこっち」
背の低い子が、奥の席から手を振っていた。
行くと、その子は自分の皿を半分こっちに押し出してきた。
「明日も、先輩と行けるんですよね」
「……どうかな。隊は朝に決まるから」
「えー。バルガさんに頼んでくださいよ」
「僕が頼んだら、たぶん逆効果だよ」
その子は、けらけら笑った。
僕は、笑い返しながら、入口の板を見ていた。
*
刻限まで、あと一時間。
飯は、味がしなかった。
隣の子はよく喋った。今日の階段が怖かったこと、白い石が思ったより軽かったこと、上りで一回だけ足を滑らせたこと。
「先輩、聞いてます?」
「聞いてる」
「絶対聞いてないですよ」
「聞いてるって」
嘘だった。
僕は、頭の中で、今朝の裏口を何度も再生していた。
シュンさんが手を振っていた。荷物は下で増えるから、上りのぶんも考えて背負って、と言っていた。
(……訊けばいい)
誰かに、あの隊に誰が入っているのか、訊けばいい。
それだけのことが、どうしてもできなかった。
訊いてしまったら、そこで確定してしまう気がして。
*
刻限は、何の音もしないまま過ぎた。
鐘が鳴るわけでも、誰かが叫ぶわけでもない。ただ、食堂の時計の針が、ある位置を越えただけだった。
それでも、分かった。
喋り声が、一段下がった。
何人かが、入口の板を見た。見て、すぐに目を逸らした。
札は、表のままだった。
*
十五分ほどして、古参が三人、装備を担いで食堂を横切っていった。
「見てくるだけだ。騒ぐな」
そのうちの一人が、誰にともなく言った。
「入口まで行って、確かめてくる。……どうせ、そこで座り込んでるんだろうさ」
軽い口調だった。
でも、その人は、荷物を三つ余分に持っていた。
*
僕は、食堂を出た。
やることがなかった。部屋に戻っても、たぶん天井を見ているだけになる。
気づいたら、医務室の前に立っていた。
扉が開いていて、中で誰かが動いている。
「……あの」
「突っ立ってるな。手を貸せ」
シルビィだった。
白衣の袖をまくって、ベッドを引きずっている。
「そっち持て。壁際に寄せる」
僕は、慌てて反対側を持った。
*
ベッドを八つ、並べた。
普段は四つしか出ていない部屋に、詰めて八つ。それだけで、床が見えなくなった。
それから、湯を沸かした。布を裂いた。棚の薬瓶を、届く場所に並べ替えた。
シルビィは、その間ずっと喋らなかった。
僕も、喋らなかった。
「おい」
布を裂き終えたところで、彼女が言った。
「中層の傷ってのがどういうものか、聞いたことあるか」
「……塞がらない、って」
「そうだ。で、その先を考えたことは」
僕は、首を振った。
「傷が治るってのはな。順番があるんだよ」
シルビィは、指を三本立てた。
「一つ。血が止まる。二つ。体が、傷の中に入った汚れを片付ける。三つ。肉が盛って、皮が張る。……中層じゃ、一つ目から起きない」
「一つ目って」
「血が、止まらないんだ」
湯の鍋を睨んだまま、彼女は続けた。
「上でなら五分で止まるような切り傷が、下じゃ何時間でも止まらん。指の一本でも、押さえてないと流れっぱなしだ。……深い傷なら、そもそも上まで保たない」
僕は、自分の手のひらを見ていた。今日、階段で擦りむいた場所が、もう乾きかけている。
「二つ目も起きない。傷に入った砂も、菌も、誰も片付けてくれない。入ったぶんが、入った時のまま、中に居座る」
「……」
「だから、上げてきた奴を最初に診る時な。僕が見るのは、傷の大きさじゃない」
彼女は、そこで一度だけ手を止めた。
「どれだけの時間、開いてたかだ」
*
「でも、シルビィの能力なら」
「効くよ。下でもな」
彼女は、あっさり頷いた。
「あれは自然に治してるんじゃない。僕のタイランを、無理やり押し込んでるだけだ。……だから、世界がどうだろうと関係なく効く」
「じゃあ」
「八人ぶん押し込んだら、僕が空になる」
言い方が、あまりに普通だった。
「順番をつけるってことだよ。誰から押し込むか、僕がその場で決める。……それを何回もやりたくないから、早く上げろって話なんだ。全部」
「今、シルビィの残りって」
「余計なことを訊くな」
布を投げつけられた。
*
「八人だ」
彼女が、ベッドのほうを顎で示した。
「八人を、中層から担いで上げる。何人要ると思う」
「……分かりません」
「僕にも分からん。ただ、足りないことだけは分かる」
彼女は、そこで初めてこっちを見た。
「うちで中層に降りられるのは、そんなに多くない。降りられる連中は、全員、戦える側に回される。……担ぐ手が、どこにも余ってないんだ」
*
廊下に出ると、明かりが全部ついていた。
夜中なのに、誰も寝ていない。
食堂には人が残っていて、卓を囲んで札遊びをしている人たちがいた。でも、誰も点数を数えていない。三回に一回、誰かが入口の板のほうを見る。そのたびに手が止まって、それから、また配り直す。
*
「先輩」
振り返ると、背の低い子が立っていた。
さっき皿を押し出してきた時とは、まるで別の顔をしていた。
「あの。……上がってこないって、どういうことですか」
僕は、答えを持っていなかった。
「明日、隊、出るんですよね。僕、行きます」
「駄目だよ」
「なんでですか」
「……僕だって、行けないから」
言ってから、自分の言葉に殴られたような気がした。
*
偵察が戻ってきたのは、それから二時間ほど後だった。
僕は、医務室の入口で、その報告を聞いた。
「入口には、いなかった」
装備を担いだままの古参が、そう言った。
「代わりに、荷物袋が三つ、置きっぱなしになってた。……中身は、そのままだ」
「そのまま」
「掘った石が、詰まったまんまだ」
その意味は、今日一日で嫌というほど分かるようになっていた。
あれは、自分で担いで上がるものだ。捨てるということは、担いでいる余裕がなかったということだ。
「血は」
「……あった」
その先は、誰も訊かなかった。
*
報告を聞いた帰り、階段の踊り場で、僕はお嬢を見つけた。
そこにも板が掛かっている。食堂のは隊ごとの札だけど、こっちは一人ずつの名札だった。下に出ている人間の名前が、隊ごとにまとめて並んでいる。
彼女は、中層の列の前に立っていた。
装備は、とっくに身につけている。それなのに、動かない。
指を、いちばん上の名札に当てていた。
そのまま、二枚目へ滑らせる。三枚目。四枚目。
一枚ずつ、上から下へ、順になぞっていく。
八枚目まで行くと、指はまた、いちばん上に戻った。
同じことを、何度も繰り返していた。
僕は、声をかけられなかった。
*
その夜、大部屋に人が集められた。
壁に、紙が貼り出されていた。
中層に降りた隊の名簿だった。
僕は、人の肩の隙間から、それを見た。
八つの名前が、上から順に並んでいる。
一番上に、隊長の名前があった。
シュン。
*
見た瞬間、何も思わなかった。
本当に、何も。
ただ、指先の感覚が、すっと遠くなった。
分かっていたはずだった。今朝から、ずっと分かっていた。
それなのに、紙に書かれた四文字を見ただけで、こんなに違うものなのかと思った。
*
その隣に、もう一枚、新しい紙が貼られた。
捜索隊の編成表だった。
上から読んだ。
お嬢の名前。バルガさんの名前。メルドさんの名前。シルビィの名前。知っている名前も、知らない名前もあった。
十四人。
僕は、二度読み返した。
三度目も読んだ。
そこに、僕の名前は無かった。
当たり前だった。
僕はGだ。武器も持てない。中層では、掠り傷ひとつが致命傷になる。
それでも。
気づいた時には、僕は人の背中を掻き分けて、逆のほうへ歩き出していた。




