第35話『境まで』
団長室の前は、人の出入りが激しかった。
灯りの束を抱えた人。担架を運んでいる人。誰かが「一時間後だ」と怒鳴っている。
僕は、その隙間に体をねじ込んだ。
「団長」
奥で地図を見ていた団長が、顔を上げた。
「僕も、連れて行ってください」
「駄目だ」
即答だった。
*
「聞け」
団長は、地図から目を離さずに続けた。
「お前はG。……中層がどういう場所か、知っているか」
「……血が、止まらないと」
「誰に聞いた」
「シルビィさんです。さっき、医務室で」
団長が、そこで初めて顔を上げた。
「ならば、話が早い」
指が、地図の一点を叩いた。
「お前が中層で怪我をする。シルビィがそれを診る。……その時に押し込まれるタイランは、誰のぶんだと思う」
息が、詰まった。
「八人ぶんしかないものを、九人で割ることになる。お前が行くというのは、そういう話だ」
「……」
「それに、戦えん者を一人連れれば、そいつを守るために誰かが一人張り付く。十四人が、実質十三人になる」
正しかった。
一つも、言い返せなかった。
「戻れ。時間が惜しい」
*
廊下に出た。
壁に背中を預けて、僕はしばらく突っ立っていた。
悔しいとか、そういうのではなかった。ただ、言われたことが全部正しくて、自分の中に反論が一つもないことが、どうしようもなく苦しかった。
(……足手まといだ)
分かっている。ずっと分かっていた。
そのまま部屋に戻ればよかったんだと思う。
でも、頭の隅に、さっきの言葉が引っかかっていた。
――担ぐ手が、どこにも余ってないんだ。
シルビィは、そう言った。
数時間前、あの人と八つのベッドを並べた。
あれは、八人が上まで上がってきた時のための八つだ。
上がってこなければ、一つも埋まらない。
*
(……あれ)
僕は、顔を上げた。
中層は、傷が塞がらない。だから危ない。それは分かる。
じゃあ、表層は。
表層は、プルセさえ付けていれば現世と同じだ。傷も普通に治る。今日、階段で擦りむいた場所は、もう乾いていた。
八人を上げるというのは、中層の底から、地上までの全部を担ぐという意味だ。
その道のりの、下半分だけが中層で。
上半分は――表層だ。
*
僕は、走り出していた。
*
バルガさんは、装備置き場にいた。留め具を締める手を止めもせずに、僕を一瞥した。
「口は利かん」
「利いてくださいとは言ってません」
「じゃあ何だ」
「訊きたいことが、三つあります」
バルガさんの手が、そこで止まった。
「言え」
「中層との境から地上まで、階段は何回折り返しますか」
「……二十二回」
「人を一人担いで、上まで何時間かかりますか」
「一人で担げば四時間。二人で交代すれば二時間半」
「今日みたいな荷を担いで、僕は何往復できますか」
バルガさんは、初めてこっちを向いた。
しばらく、何も言わなかった。
「……二往復だ。三度目で足がもつれる」
「ありがとうございます」
僕は、頭を下げた。
「おい」
背中に、声がかかった。
「何を考えてる」
「計算です」
*
団長室に戻った時、残りは四十分を切っていた。
「まだいたか」
「一度だけ、聞いてください」
僕は、息を整えた。
「僕は、中層には入りません」
団長の眉が、動いた。
「境まで行きます。中層と表層の、境目です。そこから下へは、一歩も入りません」
「……続けろ」
「上げるのは、中層の底から地上までです。でも、中層なのは下半分だけで、上半分は表層です。表層なら、傷は普通に治ります。僕が怪我をしても、シルビィさんのタイランは要りません」
*
「中層に降りられる人は、そんなに多くないと聞きました」
僕は、地図を指した。指が震えていた。
「その人たちが、底から地上まで全部担いだら、往復のたびに中層を通ることになります。……八人ぶん、何度も」
「そうだな」
「境で受け取る人がいれば、その人たちは中層の中だけに集中できます。上半分は、僕たちがやります」
「僕たち」
「今日、表層に降りた人間なら、道を知っています。階段の折り返しも、荷の担ぎ方も、一回はやりました」
「何人だ」
「四人です。……あと、たぶん、もう少し集められます」
*
「団長。表層が安全とは限りません」
古参の一人が、割って入った。
「削っていった連中が、まだ下にいる。境の手前で待たせるなら、護衛が要ります」
「はい。要ると思います」
僕は頷いた。
「でも、中層に降りられるほどの人じゃなくていいはずです。表層なら、降りられない人でも守れます」
「新人を四人、下に置くんだぞ」
古参の人が、なお食い下がった。
「守る手が、そのぶん要る。結局、同じことじゃないか」
「表層なら、僕らも走れます」
僕は言った。
「中層と違って、逃げれば助かります。……今日、僕らは全員、自分の足で上がってきました」
部屋が、静かになった。
「バルガ」
団長が言った。
「数字は合うか」
バルガさんは、いつの間にか扉のところに立っていた。
「境から地上まで、担いで四時間。二人交代で二時間半。……底から境までを精鋭が受け持って、そこから上を別の手に渡せば、精鋭の中層滞在は半分以下になります」
「担ぎ手の質は」
「今日、こいつは自分の荷を全部担いで上がりました。……使えます」
それだけ言って、彼はまた黙った。
*
団長は、しばらく地図を見ていた。
それから、僕を見た。
「ユウマ。条件を二つ出す」
「はい」
「一つ。境から先へは、一歩も入るな。誰が何と言おうとだ」
「はい」
「二つ。列を離れたら、その場で置いていく。誰も探しに戻らん」
「はい」
団長は、そこで一度、息を吐いた。
「最後に一つ、確かめる」
「……はい」
「今のは、誰の考えだ」
「僕です」
「では、責は誰が負う」
先週、この人は言った。私が決めた、責は私が負う、と。
あの背中を、かっこいいと思ったのを覚えている。
「……僕が、負います」
団長は、頷きもしなかった。
ただ、机の上の紙を引き寄せて、羽根の先をインクに浸けた。
十四人の名前の下に、新しい行が足されていく。
*
「表層中継。責任者、武羅優馬」
読み上げる声が、部屋に響いた。
「――以上。一時間後に出る」
*
廊下を走りながら、僕は自分の手のひらを見ていた。
震えは、止まっていなかった。
集めなきゃいけない。今日、下に降りた三人。それから、道を知っている人を、あと何人か。
角を曲がったところで、僕は足を止めた。
背の低い子が、そこに立っていた。
もう装備を担いでいた。
「先輩。……僕、行きます」
昼間、僕はこの子に「駄目だよ」と言った。
今度は、言えなかった。
連れて行くというのは、この子の名前を、僕が数えるということだ。
「……荷は、前に抱えて」
僕は、朝に聞いた言葉を、そのまま借りた。
「走るときに、落とすから」




