第32話『表層』
一週間は、あっという間に過ぎた。
当日の朝。基地の裏口に集まった僕たちの前に、その人は立っていた。
「プルセ。出せ」
僕は、左耳のピアスをつまんで見せた。周りの三人も、それぞれ首や手首や耳のものを引っ張り出す。
その人は、一人ずつ顔を近づけて、目を細めて確かめていった。
丸く刈り上げた頭。潰れた左耳。首から鎖骨にかけて、引き攣れた古い火傷。
バルガさん、というらしい。先週の会議で、僕に「甘ぇよ、新人」と言い放った、あの人だった。
「……お前か」
目が合った瞬間、そう言われた。
「はい」
それきりだった。
「欠けはない。行く」
*
僕以外の三人は、全員、僕より後に来た子たちだった。
いちばん背の低い子なんて、まだ十四か十五くらいに見える。さっきからずっと落ち着かなくて、荷物の紐を意味もなく結び直していた。
「ユウマ君」
裏口まで見送りに来たシュンさんが、手を振っていた。今日は別の隊で、中層まで降りるらしい。
「気をつけてね。……あと、荷物は下で増えるから、上りのぶんも考えて背負って」
「上りのぶん」
「掘った石、自分で持って帰るんだよ」
そういえば、そうだった。
*
門を出ると、まず、匂いがした。
何かを焼いている匂い。それから、金物を叩く音。誰かが誰かを大声で呼んでいる。
基地の外壁に貼りつくようにして、店とも小屋ともつかないものが並んでいた。布を張っただけの屋根。積んだ箱の上に果物を広げただけの台。子供が二人、僕たちの足元をすり抜けて走っていく。
色が、あった。
赤い布。黄色い果物。誰かの着ている緑の上着。
「この辺までだ」
バルガさんが、顎で先を示した。
「壁から離れると、何も無い」
*
その意味は、五分も歩かないうちに分かった。
静かになった。
人の声も、金物を叩く音も、少しずつ遠くなって、やがて聞こえなくなる。残ったのは、僕たちの足音と、荷物の擦れる音だけだった。
道の両側に、建物が並んでいる。崩れてはいない。窓も、扉も、看板も、全部ちゃんとある。
ただ、白かった。
塗られた白じゃない。色が抜けきったあとの白だ。看板の文字も、扉の木目も、形だけ残して、全部同じ色に固まっている。硝子の中に閉じ込めた絵みたいに、そこで止まっていた。
僕は、この道を知っていた。
この世界に落ちた日、僕はここを、たった一人で三十分以上歩いた。閉まった店の扉に片っ端から手をかけて、どれも開かなくて。歩いているのに、指先から順に体温が抜けていって。
(……あの時と、同じ道だ)
でも、今は寒くない。
左耳に、小さな石が一つ、ぶら下がっているから。
「あの、先輩」
背の低い子が、僕の袖を引いた。
「せ、先輩?」
「だって、僕らより前からいるじゃないですか」
先輩。
生まれて初めて言われた気がする。
「……ここ、静かすぎませんか」
「うん。……最初は、めちゃくちゃ怖いよ」
そう答えたら、その子は僕の一歩後ろから離れなくなった。
*
三十分ほど歩いた先で、道が途切れていた。
裂け目。
白く固まった街路が、ある地点からぱっくりと割れて、そこから先が無い。幅は、建物三つぶんくらい。覗き込んでも、底は見えなかった。
その内壁に沿って、足場と階段が、ジグザグに下へ続いている。
そこだけ、白が違った。
街の白がくすんで乾いているのに対して、その足場の白は、うっすらと光っている。
「常白で組んである」
バルガさんが言った。
「他の材なら一年で腐る。足元はケチらん」
*
降り始めて、すぐに気づいた。
暗くならない。
見上げれば、空はどんどん細くなっていく。なのに、足元は明るくなっていく。
「壁」
言われて、僕は横を向いた。
岩肌に、白い筋が走っていた。
太いものは腕くらい、細いものは糸みたいに。それが何本も、下へ下へと伸びている。全部、うっすらと光っていた。
「常白の脈だ。地表近くはもう無い。ここからが生きてる」
さらに降りると、白い筋の周りに、緑が見えはじめた。
苔だった。それから、細い草。
僕は、指で触ってみた。
湿っていた。
上の街にも草はある。でも、あれは触ると指のあいだで粉になる。ここのは、指に緑がついた。
「止まるな」
「あ、すみません」
慌てて足を動かしながら、僕はシュンさんの言葉を思い出していた。
表層はきれいだよ、と、あの人は言った。
本当だった。
*
底は、思っていたよりずっと広かった。
左右に岩の壁が立っていて、その間の平らな地面が、奥までずっと続いている。見上げると、空はもう細い線でしかない。
その壁の中に、白い筋が埋まっていた。
表に出ているのは、ほんの一部だ。指くらいの幅で顔を出して、あとは岩の奥へ入り込んでいる。
「岩を落として、白いところを出せ」
バルガさんが、壁の一点を鏨で示した。
「出たら、根元に刃を入れろ。そこから剥がれる」
「どのくらい掘ればいいんですか」
「白が出るまで」
説明は、それで終わりだった。
そういえば、と思う。
この人は、朝から一度も僕の名前を呼んでいない。「おい」か「新入り」だけだ。
メルドさんは、初日から僕を「坊主」と呼んで、会うたびに頭をがしがし撫でてくる。
同じ古参でも、ずいぶん違うものだと思った。
*
やってみると、これが難しかった。
力を入れれば砕けるし、抜けば刃が滑る。角度も深さも、全部間違えている自覚だけがある。
隣で背の低い子が、僕より先に一つ剥がして、小さくガッツポーズをしていた。
(……くそう)
一時間ほど格闘して、ようやく一つ、僕の手のひらに白い欠片が転がった。
親指の先より、少しだけ大きい。ざらついていて、見た目より軽い。
工房で触ったものと、同じだった。
(これが、誰かのプルセになるのか)
そう思ったら、手の中のものが、急にずしりと重くなった気がした。
「おい」
背後から、声。
「割れてはいない」
それだけ言って、バルガさんは別の壁へ歩いていった。
*
途中、岩の隙間から、灰色のものが二匹ばかり出てきた。
犬より少し小さい。四つ足なのか、そうでないのかも、よく分からない形をしていた。目らしいものは、無い。
それが、まっすぐこっちへ来た。
速くはない。歩くくらいの速さだ。ただ、止まらなかった。僕が一歩下がると、そのぶんきっちり寄ってくる。
「下がれ。耳を押さえろ」
「え」
「プルセだ。持っていかれるぞ」
慌てて左耳を手で覆った瞬間、バルガさんが前に出た。
鏨の柄で、一匹目の胴を横に払う。二匹目も同じように払う。
二匹とも岩壁に当たって転がって、しばらく地面をもぞもぞと動いてから、また隙間へ戻っていった。
死んではいなかった。
「あれ、なんですか」
「湧く」
「湧く?」
「常白のあるところに寄る。人にも寄る。……表層のは弱い。気にするな」
彼はもう、別のことを考えている顔だった。
僕は、しばらく耳から手を離せなかった。
*
昼過ぎに、袋が半分ほど埋まった。
「上がるには早い。もう一本、見る」
バルガさんに続いて、僕たちは壁沿いに歩き出した。
「あの、バルガさん」
僕は、思い切って背中に声をかけた。
「この前の会議のことなんですけど」
「済んだ話だ」
「え」
「団長が決めた」
彼は、前を向いたまま歩き続けた。
「俺の隊が半分寝込んだ。それだけだ。……お前の言ったことが間違いだとは、言っていない」
それきり、彼は黙った。
*
三十分ほど歩いて、角を曲がった。
そこで、バルガさんの足が止まった。
僕は、その背中越しに壁を見て――何が起きているのか、最初は分からなかった。
白い筋が、無い。
正確には、あった痕跡だけがあった。脈が走っていた形の溝が、深くえぐれて残っている。
根こそぎ、削り取られていた。
一本や二本じゃない。見渡すかぎり、この壁一面が、全部そうだった。
「……バルガさん」
返事はなかった。
彼は溝に手を当て、指先で縁をなぞっている。
「新しい」
低い声だった。
「削り口が尖ってる。風で丸まってない。……二日と経っていない」
「え」
「先月まで、ここは手つかずだった」
彼が、ゆっくりと立ち上がった。
そして、僕たち四人のほうを振り返って、初めて――少しだけ、声を落とした。
「集まれ。列を崩すな」
その顔から、朝のふてぶてしさが、綺麗に消えていた。
背の低い子が、明らかに怯えていた。荷物を握る手が、小さく震えている。
バルガさんは、その子の顔を見なかった。
「荷物は前に抱えろ。走るときに落とす」
それだけだった。
メルドさんなら、頭をがしがし撫でて、くだらない冗談の一つも言っていたと思う。
でも、その子の足は、さっきより、しっかり地面を踏んでいた。
「上がる。今すぐだ」




