第29話『大丈夫』
目が覚めると、クリーム色の天井が見えた。
ピッ、ピッ、ピッ、と規則正しい電子音。点滴のスタンド。消毒液の匂い。
(ああ……ここ、前にも)
初めてこの世界で目を覚ました時と、まったく同じ景色だった。あの時と違うのは、体じゅうに巻かれた包帯の数と――胸の奥にある、確かな充足感だけ。
「……起きたか」
視界の端から、白衣の小さな影がぬっと現れた。
「シルビィ」
「三日だ」
彼女は、腕を組んで僕を見下ろした。
「お前、三日も寝てた。……全身の裂傷が十七ヶ所。肋が二本。血も、抜けすぎ。よくもまあ、あれだけ壊れて帰ってきたもんだよ」
その声が、いつもより硬い。
「ごめん。……治してくれて、ありがとう」
「ふん」
シルビィは、そっぽを向いた。
それから、ぼそりと付け加えた。
「……無事で、よかったよ」
*
倒れていた仲間たちは、全員、目を覚ましたという。
中継地点で押さえた毒の現物から、シルビィが解毒剤を作り上げた。もう、新しい毒が基地へ流れ込むこともない。輸送経路は炎獅子が押さえ、集積所の管理体制も見直されている。
「一人も、死ななかった」
シュンさんが、そう教えてくれた時。僕は、みっともなく泣きそうになった。
一人も、こぼれなかった。
三度死んで、地獄のような二百二十五秒を耐え切って、その結果がこれなら。
……全部、報われた気がした。
その日の午後、目を覚ました団員の一人が、わざわざ僕の病室まで来てくれた。
食堂で「残すなよ」と笑いかけてくれた、あの人だった。廊下でぐったりと倒れていた、あの人。
「よお、新入り。……いや、ユウマ、だったな」
やつれた顔で、それでも彼はにっと笑った。
「毒の元を止めたの、お前らなんだってな。……助かったよ。ありがとな」
言葉が、出なかった。
僕はただ、俯いて、何度も頷いた。
*
そして、間引 芽生は、生きたまま捕らえられ、基地の最下層で厳重に管理されているらしい。
「あの人、何か話しました?」
「……何も」シュンさんが首を振る。「ずっと黙ったままだよ。ただ、一度だけ」
「一度だけ?」
「君のことを、聞かれた。……あの新芽は何者か、って」
背中が、ぞわりとした。
*
「そういえば」
シルビィが、思い出したように言った。
「お前、ランクを見てみろ」
「え……?」
言われるまま、僕は拳を握った。
(タイムランク)
手の甲に、光が浮かぶ。
そこに刻まれた文字を見て――僕は、目を疑った。
〈G8〉。
「……は?」
G1じゃない。G8。
出発した日から考えると、6つも上がっている。
「え、なんで。僕、鍛錬なんて、ほとんど」
「そう。それがおかしいんだ」
シルビィが、眉間に皺を寄せた。
「タイランってのは、そう簡単に上がらない。真面目に鍛えて、数ヶ月で一クラス。それが普通だ。……なのにお前は、たった数日で6つ跳ねた」
「な、なんですか、それ」
「知るか。僕が聞きたい」
彼女は、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「強いて言うなら――何回もの死線を、一度に潜り抜けたみたいな数字だ。……そんなこと、あるわけないけどな」
僕は、答えられなかった。
心当たりが、ありすぎたからだ。
三度、殺された。そのたびに、あの男の刃を見て、癖を覚えて、死に方を覚えた。避けて、逃げて、削られて。……あの記憶は、確かに全部、この体に残っている。
死ぬたびに、僕のタイランは削れた。
でも、そのぶん積み上がった"死の記憶"は。どうやら、消えていなかったらしい。
(……そういう、ことなのか)
余命一年から、八年へ。
数字が戻ったわけじゃない。ゼロから、積み直しただけだ。
それでも――僕は、少しだけ、笑ってしまった。
無駄じゃ、なかったんだ。あの死は。あの、無様な二百二十五秒は。
死ぬたびに、弱くなる。それは、変わらない。次に死ねば、また削られる。
でも、削られたぶんだけ、僕の中には何かが積み上がっていく。
(……だったら)
まだ、戦える。
まだ、この人たちの隣に、立ち続けられる。
「おい。難しい顔してどうした」
「いえ」
僕は、首を振って笑った。
「……もうちょっと、生きられそうだなって」
*
しばらくして、お嬢が見舞いに来た。
包帯の巻かれた腕。それでも、背筋はいつも通りまっすぐで、相変わらず取りつく島もない顔をしていた。
……ただ、一つだけ違った。
以前のこの人は、いつも一人で立っていた。誰の隣にもいないような、そんな遠さがあった。
今日のこの人は、扉のところで、後から入ってきたシュンさんに何か短く言葉を交わしてから、こちらへ来た。それだけのことなのに、なんだか、不思議だった。
「……傷は」
「もう、平気です」
「そう」
会話が、途切れる。
気まずい沈黙。何か言わなきゃ、と焦っていると、彼女がぽつりと切り出した。
「あの時の言葉」
「え」
「一人で背負うな、というあれ。……誰かに、教わったの」
僕は、首を振った。
「いえ。……自分で、思ったことです」
その瞬間、彼女の瞳が、かすかに揺れた気がした。
「そう」
それだけ言って、彼女は背を向けた。扉の前で、一度だけ足を止める。
「……ありがとう」
小さな、けれど確かな声だった。
振り返らないまま、彼女は出ていった。
僕は、しばらく呆然と、その扉を見つめていた。
あの人に、礼を言われた。
それがどれだけ大変なことなのか、この一週間ちょっとで、僕はもう知っている。
*
数日後。
歩けるようになった僕は、久しぶりに食堂へ向かった。
廊下を歩いていると、視線を感じた。
すれ違う団員たちが、僕を見て、こそこそと何かを話している。前にもあった。無能の新人が来た、能力なしだ、と、憐れむような視線。
でも、今度は。少し、色が違った。
「……本当かよ、それ」
「本当だって。お嬢が、はっきりそう言ったんだよ」
角の向こうから、声が漏れてくる。
僕は、なんとなく足を止めてしまった。
「なんて言ったんだ」
「あの子は大丈夫、って」
しばらく、間があった。
「……嘘だろ」
「嘘じゃねぇよ。俺、その場にいたもん」
「あの人が。……新人に、それを言ったのか」
声に、はっきりとした驚きが混じっていた。
僕には、何がそんなに驚くことなのか、よく分からなかった。
*
「――ああ、そりゃ驚くだろうさ」
食堂で、メルドさんにその話をすると、彼はスープをすすりながら、あっさりと言った。
「あいつはな、新人のことを、絶対に"大丈夫"とは言わねぇんだよ」
「そう、なんですか」
「当たり前だ。新人ってのは、あいつにとっちゃ、目を離しちゃならねぇ相手だからな。……朝に何人出ていって、夜に何人帰ってきたか。あいつは全部、頭の中で合わせてる。一人でも合わなきゃ、寝ねぇんだよ」
そういえば、と思い出す。
あの人は、新人の名前を必ず初日に覚えると、間引が言っていた。
「だからな、坊主」
メルドさんが、にっと牙を覗かせた。
「あいつが"大丈夫"って言ったってことは。……お前を、守る対象から外したってことだ」
「え……」
「もう、数えられる側じゃねぇ。……一緒に数える側だ、ってな」
スープの椀を置いて、メルドさんは僕の頭をがしがしと撫でた。
「あいつの中で、お前はもう新人じゃねぇんだよ。……大したもんだ」
*
胸の奥が、じわりと熱くなった。
僕は、何も変わっていない。相変わらず能力もないし、力もない。三度死んで、無様に逃げ回っただけだ。
それでも。
あの遠かった背中が、ほんの少しだけ、こちらを向いてくれた気がした。
隣に立ちたい、と願った。あの日から、まだ何日も経っていない。
その距離は、まだ果てしなく遠いけれど。
――半歩だけ、近づけたのかもしれない。
*
〈幕間〉
「あの子は大丈夫」
我ながら、ずいぶん軽率なことを言ったと思う。
団員たちが目を丸くしていたのは、視界の端で分かっていた。私は今まで、新入りにその言葉を使ったことがない。使えるわけがなかった。私が目を離した瞬間に、あの子たちはこぼれていくのだから。
けれど、あの倉庫で。
血まみれで、みっともなく転がって、それでも立ち上がって、私の前に立った、あの背中を見てしまったから。
―――人で背負うな。
思い出すのは、いつもあの言葉だ。
似ていない。顔も、背丈も、声も。あの人とは、何ひとつ。
それに、あの子は言った。誰かに教わったのではなく、自分で思ったことだ、と。
……なら、ただの偶然だ。よくある言い回し。誰が口にしても、おかしくはない。
そう、何度も自分に言い聞かせて。
それでも、あの子が振り返る一瞬に。ほんの一瞬だけ。
――どうしても、あの人の面影が、重なってしまうのだ。
「……馬鹿ね」
誰にも聞こえない声で、私は呟いた。
あの人は、もういない。
そんなことは、誰よりも私が、よく知っているのに懐かしくなってしまう。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます!
彼女が誰の面影を見ているのか。その答えは、もう少し先で明かされて、この物語の核心に触れる文脈になります。
まだまだ核心に触れるエピソードは先になりますが、引き続き楽しみにしていただけたら嬉しいです。
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