第27話『轟く』
「――遅ぇんだよ、俺は」
聞き覚えのある、低い声が、鉄の向こうから響いた。
「待たせたな、坊主」
次の瞬間。
轟音。
分厚い鉄の隔壁が、内側から抉れるように歪み――そして、根元から引き剥がされた。
耳を殴りつけるような、金属の断末魔。床が揺れ、天井から埃が滝みたいに降ってくる。もうもうと立ち込める粉塵の中を、ひしゃげた鉄板が滑っていき、倉庫の壁に叩きつけられて、そこにめり込んだ。
僕は、目を疑った。
あれを、素手で。
その煙の中に、大きな影が立っていた。
肩で息をしながら、拳を血に染めて。全身の毛を逆立て、牙を剥き出しにして。包帯の上から、いくつも古い傷を滲ませて。
――メルドさんだった。
「よぉ」
獣の目が、僕を捉える。
「ずいぶん、粘ったじゃねぇか」
*
膝から、力が抜けた。
「メルド、さん……」
崩れ落ちかけた僕の襟首を、大きな手が掴んで、引き上げてくれた。
「馬鹿野郎。まだ立ってろ」
その手の温かさに、危うく泣きそうになる。
背後から、次々と人影が続いた。シュンさん。ツグミさん。そして、炎獅子の団員たち。基地から駆けつけてきたのだろう、見覚えのない顔も混じっている。
「遅くなってごめん」シュンさんが、僕とお嬢の傷を見て、顔を歪めた。
「巻き上げ機が、壊されてたんだ。……先回りされてた」
だから、二百では足りなかったのか。
僕の計算が甘かったんじゃない。あの人が、そこまで潰していたのだ。
「けど、うちにゃ、機械より頑丈なのが一匹いたからね」
ツグミさんが、肩をすくめてメルドさんを指した。
「その傷で殴り続けるとか、正気じゃないよ」
「うるせぇ。……俺が先に着いてりゃ、こいつをこんな目に遭わせずに済んだんだ」
メルドさんの声が、低く震えていた。
その手が、僕の血まみれの腕を、そっと確かめる。あちこち裂けて、まともに動く場所などない体を。
「……よく、生きてたな」
「メルドさんが、教えてくれたので」
僕は、掠れた声で答えた。
「勝てない相手からは、逃げろって。……時を、買えって」
メルドさんが、ぐっと言葉に詰まった。それから、乱暴に僕の頭を撫でて、ぼそりと言った。
「……上出来だ、坊主」
*
そして、お嬢が。
血だまりの中で、それでも武器を握ったまま、立っていた。
「……よく、来たわね」
「当たり前だ。段取り、聞いてたからな」
メルドさんが、にっと牙を覗かせる。
「集合地点も、機械室の位置も、お前が全員に教えたんだろ。……おかげで、迷わずここまで来れた」
お嬢の唇が、わずかに震えた。
「……そう」
それだけ言って、彼女は前を向いた。
けれど僕には見えた。その横顔が、ほんの少しだけ、泣きそうに歪んだのが。
*
「――やれやれ」
その、白けたような声で。
空気が、また張り詰めた。
間引だった。
彼は、剥がれた隔壁の残骸を眺め、心底つまらなそうに、ため息をついていた。
「せっかく、私が楽しんでいましたのに。……これでは、すっかり興が削がれてしまいました」
「てめぇが、庭師か」
メルドさんの喉から、獣の唸りが漏れる。
「ええ。はじめまして」
丁寧に、間引は頭を下げた。
「ですが、順番というものがございます。私は今、この新芽と、大切な時間を過ごしていたのですよ。……無粋な方々に、割り込まれる筋合いはございません」
彼は、指を軽く鳴らした。
その音が、静まり返った倉庫に、やけに大きく響く。
*
――ざわり、と。
倉庫の暗がりが、動いた。
積み上がった木箱の陰から。上階の通路から。天井の梁の上から。
黒衣の男たちが、次々と姿を現す。五人、十人。数え切れない。どれも、あの日僕を殺しかけた金髪の男と、同じ気配を纏っていた。
選民派。
僕を殺しかけた、あの金髪の男の同類。それが、倉庫を埋め尽くすほどの数、湧いて出た。
ぞわりと、背筋が冷える。あの日、たった一人に手も足も出なかった僕が、この数を前にして、何ができるというんだ。
「彼らと、遊んでいてください」
間引は、微笑んだ。
「私は、まだこの子と、話の途中ですので」
「――ふざけんな!」
メルドさんが吠える。だが、その前に、黒衣が壁のように立ちはだかった。
数が、多すぎる。
「シュン!」
「――分かってる」
*
シュンさんが、前へ出た。
いつもの穏やかな顔のまま、静かに両手を持ち上げる。指を、ゆっくりと開く。
その所作は、戦うというより、何かを整えているみたいだった。
「〈縁糸〉」
その瞬間。
倉庫の空気が、きらり、と光った気がした。
見えるか見えないかの、細い糸。それが、彼の指先から幾筋も伸びて、床へ、壁へ、柱へ、梁へと張り渡されていく。一本、十本、数え切れないほど。倉庫そのものが、巨大な織物の中に取り込まれていくようだった。
黒衣の男たちが、駆け出した。その足が、地面を蹴った瞬間。
「――かかった」
ぴん、と糸が張る。
先頭の三人が、同時にもんどり打って転倒した。慌てて起き上がろうとした腕にも、首にも、糸が絡みつく。もがくほどに、それは深く食い込んでいく。
「な、なんだこれ……っ!」
「悪いね。うちは、繋ぐのが仕事なんだ」
シュンさんが、指をわずかに動かす。
それだけで、糸の網が生き物みたいにうねり、次の三人を絡め取った。
「――今だ、メルド!」
「おうよ!」
解き放たれた獣が、糸に囚われた敵の群れへ躍りかかる。
一撃。豪腕が、黒衣の体をまとめて薙ぎ払った。壁が砕け、木箱が吹き飛ぶ。
「上、二人!」
ツグミさんの声が飛ぶ。梁の上から飛び降りようとしていた影が、シュンさんの糸に絡め取られ、無様に落ちてきた。
「右奥、まだ三人隠れてる。……そっちの柱の裏!」
「了解」
シュンさんの指が、柱へ向く。糸が走り、闇の中で悲鳴が上がった。
繋ぎ、止め、殴り、報せる。
四人が、まるで一つの生き物みたいに動いていた。
誰も、一人で全部をやろうとしていない。ツグミさんは見つけるだけ。シュンさんは止めるだけ。メルドさんは砕くだけ。誰かの手が足りなければ、別の誰かが埋める。それだけのことで、あれほど絶望的だった数の差が、じりじりと押し返されていく。
*
僕は、その光景を、呆然と見ていた。
すごい、と思った。
一人ひとりが、自分の役目を知っている。誰も、全部を背負っていない。
誰かが囲まれれば、別の誰かが声を飛ばす。糸が止め、牙が砕き、鼻が次の敵を見つける。
――ああ。
これが、あの人が言っていた"群れ"なんだ。
「……ふむ」
その戦況を眺めて、間引が、小さく呟いた。
「よく、動きますね」
その声が、少しだけ、硬い。
彼は、群れを見ていた。糸を張る手を。牙を剥く獣を。声を飛ばす鼻の利く女を。
一人ずつ、順に。
……そうだ。
胸の奥に残っていた、あの小さな種が。今、はっきりと芽を出した。
一対一であれば、読めぬ者はいない。
――じゃあ、この人は今。誰を、読んでいるんだ。
あの糸を読めば、牙を見落とす。
牙を読めば、声を聞き逃す。
この人の目は、たった一つしかないのに、追うべきものが四つも五つもある。
初めて、"届くかもしれない"と思った。
「さて」
間引の視線が、僕とお嬢へ戻ってくる。
「邪魔者は多いですが。……あなた方だけは、私が、きちんと片づけましょう」
湾曲した刃が、赤黒い光を弾いた。




