第26話『一対一であれば』
四十。五十。
刃が来る。躱す。転ぶ。立つ。
同じことを、何度繰り返しただろう。躱すたび、体のどこかが削れていく。手のひらは擦り剥け、爪は割れ、肩で息をしている。
それでも、僕は考えないようにしていた。次にどう動くかを決めない。ただ、あの人の右手だけを見る。返れば、逆へ。それだけを、機械みたいに繰り返す。
七十。八十。
腿を切られた。熱い。膝が笑う。それでも、倒れない。倒れたら、この人は次にお嬢へ向かう。それだけは、絶対にさせない。
百。百二十。
呼吸が、鉄の味でいっぱいになる。視界の端が、ちかちかと明滅していた。もう、まっすぐ立っているのかどうかも、自分では分からない。
「ユウマ……!」
背後で、お嬢の声がした。悲鳴のような、けれど、どこか震えた響き。
見なくても分かる。あの人は今、僕を見ている。無能と呼ばれた新人が、あの間引の刃の下で、まだ立っているのを。
「なぜです」
間引の歩幅が、少しずつ大きくなっていく。
「なぜ避けられる。あなたは無能でしょう。能力もない、Gランクの、拾われたばかりの新芽でしょう」
その声に、初めて、苛立ちの棘が混じった。
「読めているのです。あなたが次にどこへ跳ぶかも、何を考えるかも。……なのに、なぜ、そこにいない」
苛立ちを抑えるように、彼は一度、息を吐いた。
そして、まるで自分に言い聞かせるように、静かに告げた。
「――〈看破〉」
「え……?」
「私の能力の名です。大層なものではありませんよ。ただ、相手の"考え"が視えるというだけのこと」
刃を構え直しながら、彼は淡々と続けた。
「人は、動く前に必ず考えます。どこへ跳ぶか、どこを狙うか、次に何をするか。……その一瞬の決断が、私には視える。相手を眺めれば眺めるほど、深く、正確に。日々の癖も、思考の順序も、迷った時に選ぶ道さえも」
だから、お嬢は読まれたのだ。
何ヶ月も、何年も。手帳に書き留められながら。手順も、癖も、考え方の順番まで、全部。
「私は、力比べを好みません。腕の立つ者など、いくらでもおりますからね」
間引は、静かに続けた。
「ですが、考えを先に知っていれば。その者がどれほど強かろうと、必ず、一手だけ先へ回れる。……剣とは、そういうものです。速さでも、力でもない。どこへ来るかを知っている者が、勝つ」
その理屈は、あまりに、正しかった。
だからこの人は、あんなにも強かった。半歩しか動かないのに、誰の刃も届かない。
「ですから、この方には勝てない。この方が何を選ぼうと、私はその一手先にいる。……ええ。一対一であれば、私に読めぬ者など、おりません」
一対一であれば。
その言葉が、痛みで霞む僕の頭の隅に、小さく引っかかった。
一対一であれば、読めない者はいない。
……裏を返せば。
この人は、"一対一でなければ"、どうなるんだ。
考えかけて、僕は慌ててその思考を止めた。だめだ。考えるな。考えれば、読まれる。
でも、引っかかりだけは、消えなかった。胸の奥に、小さな種みたいに、それは残った。
「これまでは、そうでした」
彼の目が、ぎらりと僕を睨む。
「なのに、あなたは。読めているのに、当たらない。……いったい、何なのです。あなたは」
百五十。
*
そこからの間引は、明らかに変わっていた。
刃の軌道が荒くなる。無駄のなかった動きに、力みが混じる。半歩で足りていた躱しが、一歩になる。
「なぜ、そこにいない」
「なぜ、まだ立っている」
「なぜ――あなたのような無能が」
言葉が、増えていた。今までのこの人は、必要なこと以外、何も口にしなかったのに。
――知らない。僕だって、知りたい。
でも、一つだけ言えることがある。
あなたは僕を、三度殺した。だから僕は、あなたの手の返し方も、踏み込む間合いも、回り込む向きも、全部知っている。
あなたが僕を弄んだその時間が、そっくりそのまま、僕の武器になったんだ。
百七十。
そして、そのぶんだけ、僕は削られていた。
肩を裂かれた。脇腹を打たれた。血を流しすぎて、指先の感覚がない。躱しているのか、ただ倒れているのか、自分でも曖昧になってくる。
一度、完全に読まれた。
跳んだ先に、刃が待っていた。あ、と思った時にはもう遅い。死んだ、と確信した。
けれど、その刃は、僕の喉のわずか手前を通り過ぎた。
――足が、届かなかったのだ。
跳ぼうとした距離に、G1の体が追いつかなかった。そのせいで、僕は"間引が読んだ場所"より、半歩手前に落ちた。
無様に転がりながら、僕は思った。
弱くて、よかった。
生まれて初めて、そんなことを思った。
背後で、お嬢が息を呑む気配がした。
その視線を、背中に感じる。あの人は今、何を見ているんだろう。血まみれで転がり回る、無能な新人か。それとも――。
考えるのは、やめた。今は、数えることだけでいい。
百八十。百九十。
「……不快です」
初めて、間引の声が、低く濁った。穏やかな仮面が剥がれ落ち、目の奥に、抑えきれない感情がぎらついている。
「摘まれるべき芽が、指の間を逃げ回るのは。……ひどく、不快だ」
その言葉に、僕は思わず、笑いそうになった。
ああ、この人は今、"読み違えている"んだ。
弱い者は摘まれるべきだと、この人は言った。力ある者だけが残るのが理だと。……なのに、いちばん弱いはずの僕が、まだ立っている。
その一点だけで、この人が信じてきたものが、軋みはじめている。
そして、それは僕にも分かった。この人は――怖いのだ。
自分の理屈が間違っているかもしれないことが。読み切れないものが、この世に在ることが。
だからこんなにも、僕を消したがっている。
*
二百。
――来ない。
心臓が、跳ねた。
耳を澄ませても、鉄の壁の向こうから、何の音もしない。
計算が、外れた。
距離を読み違えたのか。機械室の場所が違ったのか。それとも――あの人たちの身に、何かが。
嫌な想像が、一気に膨れ上がる。膝から力が抜けかけた。
(もう、無理だ)
体はとっくに限界だった。血を流しすぎている。数えるのに使っていた頭も、もう霞んでいる。次の一撃は、たぶん躱せない。
「二百五」
背後で、お嬢の声が、静かに続いていた。
彼女は、数えるのをやめていなかった。
「二百十。……二百十五」
淡々と、しかし一つも狂わせずに。まるで、そうしていれば必ず届くと信じているみたいに。
その声に、脚が動いた。
そうだ。僕が数えるのをやめても、あの人が数えている。僕が倒れても、この時間は、あの人の中で続いていく。
だったら――もう少し。あと少しだけ。
刃が、大きく振りかぶられた。今までとは違う、力任せの一撃。躱せる――躱せるけれど、その先の壁が、逃げ場を塞いでいる。
「二百二十」
血で濡れた床を、僕は蹴った。
「二百二十五」
そして。
*
頭上で、がん、と空気が震える。
分厚い鉄の隔壁が、内側から殴りつけられたような、凄まじい音を立てて破裂した。
「――遅ぇんだよ、俺は」
聞き覚えのある、低い声が、鉄の向こうから響いた。
「待たせたな、坊主」




