第25話『退き戦』
お嬢は、立ち上がった。
けれど、その体は、誰の目にも限界だった。肩から腰にかけての傷は深く、床には血だまりが広がっている。構えた腕が、小刻みに震えていた。
「……無理です。お嬢、下がって」
「黙って、後ろにいなさい」
彼女は、それでも前に出ようとする。
間引は、そんな彼女を静かに眺めていた。
「困りましたね。……立ち上がられても、結果は変わりませんのに」
その通りだった。彼女が動いた瞬間、また読まれる。庇おうとすれば、また斬られる。
(させない)
考えろ。何ができる。
僕には力がない。能力もない。G1の体は重く、まともに走ることすらできない。反撃なんて、できるはずがない。
勝てない。絶対に、勝てない。
――なら、勝たなくていい。
その時、頭の中に、あのぶっきらぼうな声が蘇った。
*
訓練場の隅。何十回目かに転がされた僕が、床に大の字になっていた時のことだ。
「なあ、メルドさん。もし、絶対に勝てない相手に会ったら。……僕は、どうすればいいんですか」
我ながら情けない質問だったと思う。メルドさんは鼻を鳴らして、僕の隣にどっかりと胡座をかいた。
「馬鹿か、お前。そんなもん、決まってるだろ。逃げろ」
「い、いいんですか。それ」
「いいに決まってんだろ。恥でもなんでもねぇ。……ただしな」
太い指が、こつん、と床を叩いた。
「ただ逃げるのは、負けだ。"退き戦"ってのは、そうじゃねぇ」
「退き、戦」
「そうだ。場所をくれてやって、代わりに時を買う。それが退き戦だ。……だがな坊主、時ってのはタダじゃ買えねぇ。買った時間で何が変わるのか、先に勘定できてなきゃ、そいつはただの無駄死にだ」
メルドさんは、指を一本立てた。
「だから、逃げる前に数えろ。誰が、どこにいて、あとどれくらいで動けるのか。あてのねぇ逃げは、ただの先延ばしだ。……あてがあるなら、そいつは立派な戦術になる」
「……メルドさんは、それ、やったことあるんですか」
「あるさ。殿ってやつをな」
にっ、と牙が覗いた。
「勘違いすんなよ。殿ってのは、逃げる役じゃねぇ。味方が体勢を立て直すまでの"時間"を、体で稼ぐ役だ。……いちばん強ぇ奴がやる仕事なんだよ」
*
(勘定しろ)
僕は、痛みで霞む頭を、無理やり動かした。
まず、みんなはどこにいる。
隔壁が落ちた時、全員が迷わず走った。段取りが共有されていたからだ。行き先は、集合地点。お嬢が指定した、あの桟橋の袂。
指揮は、シュンさん。お嬢が「私が動けなくなったら」と、そう決めていた。
そして、ツグミさんの探知。あの人なら、鉄の壁越しでも僕たちの居場所を辿れる。
つまり、あの人たちは今、僕たちがここにいることを、もう知っている。
じゃあ、どうやって入ってくる。
隔壁は、天井のレールから吊るされていた。ここへ来る途中、桟橋の手前で見た、あの機械室。太い鎖と、巻き上げ機。あそこを動かせば、隔壁は上がる。
集合地点から、機械室まで。回廊を三つ戻って、桟橋を二本。
僕の足なら、絶望的な距離だ。でも、あの人たちの足なら。
(……二百)
数えるなら、そのくらい。
根拠は、僕の重い足で歩いた記憶と、あの人たちの速さと。それから――必ず戻ってくるという、確信だけだ。
*
「……お嬢」
僕は、震える足で、彼女の前に立った。
「二百、数えてください」
「……何を、言って」
「みんな、来ます。集合地点から機械室まで、あの人たちの足なら、そのくらいで届く。だから、僕が二百数えるまで、時間を稼ぎます」
お嬢の目が、見開かれた。
「無茶よ。あなたの体で――」
「勝とうとは、しません」
僕は、首を振った。
「逃げるだけです。斬られないように、倒れないように。……それだけなら、たぶん、僕にもできる」
しばらくの、沈黙。
やがて、お嬢は、静かに息を吐いた。
「……分かったわ」
その声には、迷いがなかった。
「数えるわ。二百。……一つも、狂わせない」
その一言に、胸が熱くなった。この人が、僕に預けてくれた。たった二百の数を。それでも、確かに。
*
「ほう。あなたが、私の相手を」
間引が、微笑んだ。
「では、まず、右へ逃げますね」
――違う。
僕は、動かなかった。その代わり、彼の右手を見ていた。
刃を振るう直前、この人の右手は、必ず一度だけ内側へ返る。
(今だ)
返った。
僕は、返った側とは逆へ、体を投げ出した。空を切る音。頬のすぐ横を、白刃が通り過ぎていく。
「……おや」
床を転がり、すぐに立ち上がる。
考えるな、と自分に言い聞かせた。
この人は、僕の"考え"を読む。次にどう動こうと決めた瞬間、その決断ごと先回りされる。
だったら――決めなければいい。
僕は何も選ばない。ただ、この人の癖に、体を反応させるだけだ。
右手が返れば、逆へ。踏み込みは、僕が息を吸った瞬間だから、吸うのをやめる。回り込むのは、必ず時計回り。だから、その先へ半歩だけ。
「妙ですね」
間引の声から、余裕が抜けはじめた。
「あなたの動きが、読めない。……いや、違いますね。読むべき"考え"が、ない」
その通りだった。策も、狙いも、勝ち筋もない。決断がなければ、先回りされる決断もない。
考えることをやめた無能の体だけが、この人の目の網から、辛うじてこぼれ落ちていた。
同時に、僕は徹底して"何もしなかった"。
反撃はしない。隙を突こうともしない。そんなものを狙った瞬間、その企みごと読まれて、殺される。
僕がやるのは、距離を取ることと、倒れないことだけ。斬られてもいい。浅ければいい。
勝とうとしないこと。それが、いちばん読まれにくい戦い方だった。
*
そして、もう一つ。僕自身にも説明のつかないことが、起きていた。
体が、思った通りに動かない。
僕が訓練で覚え込んだのは、G2の体だ。この距離なら跳べる。この速さなら間に合う。何百回も転がされながら、そういう感覚を、僕は体に刻んできた。
でも、今の僕はG1だ。
跳ぼうとした距離に、届かない。踏み込んだ半歩が、足りない。伸ばした腕が、思ったより手前で止まる。頭の中の自分と、実際の自分が、ほんの少しずつ噛み合っていない。
本来なら、それは致命的なはずだった。
なのに。
「……なぜ、そこへ」
間引の刃が、僕の"いるはずだった場所"を、空しく薙いだ。
そうか、と気づいた。
この人は、僕の考えを読む。僕が「ここへ跳ぶ」と思えば、その着地点を潰しにくる。……でも、僕の体は、僕が思った通りには動かないのだ。届かない。ずれる。転ぶ。
読まれた通りに動けない体が、結果として、読みの網から半歩ぶんだけ、外れていた。
弱くなったこと。何ひとつ良いことなどなかったはずのそれが。今この瞬間だけは、僕を生かしている。
――笑ってしまう。
僕はきっと、この世界でいちばん、無様な生き延び方をしている。
けれど、無様でいい。格好悪くていい。
僕が一秒でも長く立っていれば、その一秒だけ、あの人が斬られずに済む。それだけで、この体には充分すぎる意味がある。
背後で、静かな声が聞こえた。
「……十一。十二」
お嬢が、数えている。
僕のために。僕の稼いだ時間を、一つも取りこぼさないように。
――なら、絶対に、無駄にはしない。
僕は、血の滲む拳を握り直した。




