第24話『そのために』
「ごめんなさい。ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」
うわ言のように繰り返される、その声を聞いていた。
床に頬をつけたまま、指一本動かせないまま。刃の切っ先が、僕の胸の上に翳されているのを、ぼんやりと見上げながら。
謝るな、と思った。
この人が謝るなんて、絶対に、間違っている。
僕はあの日、腹を貫かれて死にかけて、冷たいアスファルトの上で震えていた。誰も来なかった。誰も気づかなかった。あのまま、誰にも知られずに消えるはずだった。
そこに、青い光が差した。
名前も知らない僕のために、この人は本気で怒ってくれた。壊れ物みたいに抱え上げてくれた。冷えきった体に伝わった、あのかすかな体温を、僕は今でも覚えている。
それを――間違いだったなんて、言わせない。
体は動かない。声も出ない。全身が痛みで軋んで、指先の感覚すら曖昧だ。
それでも、腹の底で、何かが煮えていた。
僕は自分のことなら、いくらでも諦められる。無能だと言われても、弱いと笑われても、慣れている。でも、あの人が自分を責めているのを、黙って聞いているのだけは――どうしても、耐えられなかった。
「……ちが」
血の混じった唾が、口の端からこぼれた。
「違う……ます」
「おや」
間引の切っ先が、ぴたりと止まった。
「まだ、お話しになれましたか」
*
痺れた腕に、力を込める。動かない。それでも、無理やり肘を立てて、上体を持ち上げた。
視界が揺れる。呼吸のたびに、肋のあたりが軋んだ。
「あの子たちは……お嬢が、殺したんじゃ、ない」
「ほう」
「あなたが、殺したんだ」
当たり前のことだった。あまりに当たり前で、この空間では、誰も口にできなくなっていたこと。
「守ろうとしたことは、罪じゃない。……名前を、覚えたことも」
「美しいお言葉ですが、結果を見れば――」
「結果を作ったのは、あなたです」
僕は、遮った。
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「あの人が優しくしたから死んだんじゃない。あなたが、優しくされた子を選んで殺した。それだけです。……それを、あの人のせいにするな」
間引の眉が、わずかに動いた。
「……ずいぶんと、単純にお考えになる」
「単純な話です。人を殺したのは、人を殺した人だ。それ以上でも、以下でもない」
「それに」
僕は、床に伏せたままのお嬢へ、顔を向けた。
「僕は、拾ってもらって、よかったと思ってます」
彼女の肩が、小さく揺れた。
「静かに消えるほうが楽だったなんて、そんなの、あなたが決めることじゃない。僕は……この一週間で、飯を食って、転がされて、笑って。……初めて、居場所ができたんです」
喉が、詰まった。
「痛くても、怖くても。拾ってもらえて、よかった。……だから、謝らないでください」
*
「……なるほど。心温まるお話です」
間引は、静かに首を振った。
「ですが、何も変わりませんよ。彼女が誰かに手を伸ばす限り、私はその子を摘む。そういう仕組みなのです。……あなたは、その仕組みに、何か答えを持っておいでですか」
答え。
痛みで霞む頭の中で、僕はずっと、それを探していた。
三度死んで、三度戻って。避けようとして、駄目だった。先回りしようとして、駄目だった。癖を覚えて、それでも届かなかった。
でも――たった一つだけ、確かに変わったことがある。
隔壁が落ちた時。誰も戸惑わずに走り出したこと。段取りが、あの人の頭の中だけじゃなく、全員の中にあったから。
そうか。
そうだ。この人が読めるのは。
「……あなたが読めるのは」
僕は、顔を上げた。
「一人の中にしか、ないものだけだ」
間引の動きが、初めて、止まった。
「あなたはお嬢を読んだ。全部あの人の頭の中にあったから、あの人を読むだけで、全部が読めた。……でも、みんなで分けて持ってたら、どうなりますか」
「……」
「一人ずつ読んでも、全部にはならない。誰かが動けなくなっても、他の人が続きを持ってる。……あなたの言う"仕組み"は、そこで終わりです」
間引は、しばらく黙っていた。
その穏やかな顔から、ほんの一瞬だけ、微笑みが消える。まるで、算段の合わない数字を見つけた人みたいに。
「……妙なことをおっしゃる」
低い呟きだった。
「G1の、落ちたばかりの新芽が。……どこで、そんな物言いを覚えたのです」
言いながら、震える膝に力を込めた。
立て。まだ、立て。
「だから、お嬢」
僕は、彼女に向かって、言った。
「守るのを、やめないでください。……一人で守るのを、やめてください」
そして。
僕の口から、するりと言葉がこぼれた。
「一人で背負うな。こぼれそうなものは、みんなで持てばいい」
――え。
自分の声じゃないみたいだった。
「……俺たちは、そのために群れてるんだろう」
*
言い終わってから、僕は自分で戸惑った。
何を言ったんだ、今。「俺」なんて、生まれてこの方、一度も使ったことがないのに。誰かに教わった覚えもない台詞が、まるでずっと前から知っていたみたいに、勝手に口から出てきた。
(……なんだ、これ)
胸の奥の、鍵のかかった部屋が。こつん、と鳴った気がした。
そして。
「――え」
小さな、掠れた声。
お嬢だった。
彼女が、顔を上げていた。
光の消えていたはずのその目が、大きく見開かれて、まっすぐに僕を見ている。
「……今、なんて」
「あ、いえ。すみません、僕、変なことを」
「もう一度」
彼女の声が、震えていた。
「もう一度、言って」
戸惑いながら、僕は繰り返した。
「一人で、背負わないでください。……こぼれそうなものは、みんなで持てばいい」
その瞬間。
彼女の瞳から、ぼろりと、大粒の雫がこぼれ落ちた。
*
お嬢は、泣いていた。
傷だらけの体で、床に手をついたまま。声も上げず、ただ、透明な雫だけを、ぽたぽたと床に落としていく。
僕は、面食らった。何が起きているのか、まるで分からなかった。
あの人が泣くところなんて、想像したこともなかった。いつも凛と背筋を伸ばして、返り血を浴びても眉ひとつ動かさなかった人が。今は、まるで、道に迷った子どもみたいに見えた。
彼女は、僕を見ていた。
でも、その眼差しは――僕を見ながら、僕ではない誰かの姿を、必死に探しているようだった。
僕の顔をなぞって、輪郭を確かめて、それでも見つからなくて。もう一度、最初から探し直しているような。そんな、痛々しい目だった。
「……どうして」
震える唇が、掠れた声を紡ぐ。
「どうして、あなたが。その言葉を」
「え……?」
「あの人しか、知らないはずなのに」
あの人。
誰のことだろう。僕には、まるで心当たりがなかった。
けれど、彼女の目に、少しずつ光が戻っていくのが分かった。消えかけていた炎に、誰かがそっと息を吹き込んだみたいに。
「……そうだったわ」
彼女は、涙を拭いもせずに、呟いた。
「私は、あの夜。……同じことを、言われたのに」
そして――震える手で、落ちていた武器へと手を伸ばした。
指が、柄を掴む。傷ついた膝が、床を押す。血だまりの中で、その背中が、ゆっくりと持ち上がっていく。
「……立ちなさい、ユウマ」
その声には、もう、あの空虚さはなかった。
「私も、立つわ」
――ああ。
戻ってきた。
僕が知っている、あの凛とした背中が。
「おや」
間引が、静かに首を傾げた。
その顔から、いつもの穏やかな微笑みは、消えていた。




