第23話『いちばん大事なところ』
間引は、手帳をゆっくりとめくった。
紙をこする、乾いた音。それだけが、鉄の壁に囲まれたこの空間に響いている。
「まずは、感謝を申し上げねばなりません」
「……感謝?」
「ええ。あなたほど熱心に、私に教えてくださった方はいらっしゃいません」
彼は、心底うれしそうだった。
「三ヶ月前、東の廃橋。あなたは新入りを二人連れて、夜明け前に渡った。あの時、あなたは先に子どもたちを渡し、自分は最後に渡った。……あなたは必ず、自分が最後に立つ。そう学びました」
お嬢が、息を呑む。
「二ヶ月前、南の水路。あなたは負傷者を庇って、退路を三度も変えた。三度目に選んだのは、遠回りだが、身を隠せる道でした。……あなたは、速さより確実さを取る。そう学びました」
一枚。また一枚。
「先月。あなたは仲間を先に帰し、一人で残って囮になった。……あなたは、自分の危険を勘定に入れない。そう、学びました」
「やめ……なさい」
「食事の時間も、記しております。あなたは、任務が続くと二日は食べない。眠るのは、いつも装備をつけたまま。……ああ、それから」
彼は、ふと顔を上げた。
「あなたは、新入りの名前を、必ず初日に覚えますね」
お嬢の肩が、跳ねた。
「ですから、私も覚えることに致しました。……お聞きになりますか」
「……やめ」
「マサキさん。ノリ、と呼ばれていましたね。十九で落ちてきて、いつも腹を空かせていた。……ユキノさん。あなたが最初に名を呼んだ日、泣いておられたそうですね。うれしくて」
一人。また一人。
彼は、まるで大切な友人の話でもするみたいに、穏やかに、名を並べていく。
「トウマさん。ハルさん。……全部で、七人。私は、全員のお名前を覚えております」
彼は、少しだけ首を傾げた。
「あなたは、いかがですか」
お嬢は、答えなかった。
答えられなかったのだと思う。彼女の唇が、七つの名前をなぞろうとして、途中で、止まったのが見えた。
「ああ。責めているのではありませんよ。人は忘れるものです。……ただ、あなたが忘れかけた名を、殺した私が全部覚えている。それが、少しだけ面白くて」
*
床に伏せたまま、僕は聞いていた。
聞きたくなかった。耳を塞ぎたかった。
彼が読み上げているのは、戦術じゃない。癖でも、手順でもない。
――あの人が、どれだけ真剣に、誰かを守ろうとしてきたか。その記録だ。
それを、この男は。獲物の生態を観察する日誌みたいに、几帳面に書き留めていたのだ。
「あなたは、本当に美しい方です」
間引の声には、嘲りが一切なかった。それが、何よりも悍ましかった。
「一人も見捨てない。誰も数に入れない。……ですから、こんなにも読みやすい。優しさというものは、行動を縛りますからね。あなたは、優しくあろうとするたびに、選べる道を一つずつ減らしていた」
「……」
「では、いちばん大事なところを申し上げましょう」
彼は、手帳を閉じた。
「消えていった新入りの子たちですが。……なぜ、あの子たちが選ばれたか、お分かりですか」
お嬢は、答えなかった。答えられなかったのだと思う。
「あなたが、目をかけた子たちだからですよ」
*
その瞬間の、お嬢の顔を。
僕は、たぶん一生、忘れない。
「……なに、を」
「リミトには、新入りなど掃いて捨てるほどおります。その中から、なぜ、あの子たちだったのか。答えは簡単です。あなたが名前を呼び、あなたが気にかけ、あなたが手を伸ばした。……だから、あの子たちは"あなたの子"になった」
間引は、指を一本立てた。
「あなたを削るには、あなた自身を斬るより、あなたの手が届く場所にいる子を摘むほうが、ずっと効率がよろしい。……つまり」
一拍、置いて。
「あなたに拾われた時点で、あの子たちの死は決まっていたのです」
かたん、と。
お嬢の膝が、床を打った。
「……嘘」
「嘘ではございません。あなたが名前を覚えた子から、順に摘みました。……四人目の子は、あなたが自分の外套をかけてやった子でしたね。とてもよく、覚えております」
「やめて」
「あなたが優しくすればするほど、その子は死に近づく。あなたが手を伸ばした子から、順番に、消えていく」
「やめてっ!」
悲鳴のような声だった。
あの、氷のように静かだったお嬢の声が。今、みっともなく震えている。
「そして」
間引の目が、床に伏せた僕へ滑った。
「この子も、そうです」
*
心臓が、冷たく縮んだ。
「あなたはこの子を、選民派の手から拾い上げた。ええ、存じております。……もし、あなたが通りかからなければ。この子はあの場で、静かに事切れていた。プルセもなく、ただ凍えて、眠るように消えるはずだった」
彼は、僕を見下ろして、微笑んだ。
「苦しまずに、済んだのです」
「……っ」
「けれど、あなたは拾った。だから、この子は今ここで、刻まれている。三度も四度も打たれ、床を這って、これから胸を貫かれる。……ずいぶん、遠回りな殺し方をなさいましたね」
違う。そうじゃない。
僕は、あの人に助けられて、良かったと思っている。あの食堂で飯を食えた。訓練で転がされた。無能と笑われて、それでも立ち上がれた。
そう言いたいのに。
打たれすぎた喉からは、掠れた息しか出てこない。
「あなたは、何一つ、間違ったことはしておられない」
間引は、優しく続けた。
「懸命に守り、懸命に手を伸ばし、懸命に、一人で背負ってこられた。……ただ、その全部が、そのまま人殺しの手順になっていた。それだけのことです」
*
「――ですから」
彼は、膝をつくお嬢の前に、静かにしゃがみ込んだ。
「もう、おやめなさい」
まるで、心から案じているみたいな声だった。
「誰も気にかけず、誰の名も覚えず、誰にも手を伸ばさなければ。あなたの周りの芽は、摘まれずに済みます。あなたが手を引くことが、あの子たちにとって、いちばんの救いなのですよ」
――違う。
そんなの、違う。
そう叫ぼうとして、僕は血の混じった唾を吐いた。声にならない。
「これからも同じです。あなたが誰かを守ろうとするたび、私はその子の居場所を知る。あなたが誰かを大切に思うたび、その子は摘まれる。……あなたはもう、誰も守れない。守ろうとすれば、必ず、殺すことになる」
一言、一言が。丁寧に、正確に、彼女のいちばん柔らかいところへ、押し込まれていく。
これは、殺し方だ。刃を使わない、殺し方。
「――ああ。今、こうお考えでしょう。『それでも、守ることをやめるわけにはいかない』と」
お嬢の目が、大きく見開かれた。
「そして次に、こう思われる。『では、私はどうすればよかったのか』。……ほら」
彼女の唇が、震えたまま止まっている。何も言っていない。何も言っていないのに、全部、言い当てられている。
「最後には、こうお考えになる。『考えたところで、また読まれるだけだ』と。……ええ。その通りです」
もう、逃げ場がなかった。
戦うことも、考えることさえも、この人の手のひらの上にある。自分の頭の中でさえ、この男から隠れられない。
その事実が、お嬢から、最後の足場を奪っていくのが分かった。
「あなたの優しさは、罪です。……どうか、もう、誰にも優しくなさいませんよう」
*
長い、沈黙があった。
やがて。
お嬢の唇が、ゆっくりと動いた。
「……そう、ね」
その声には、もう何の力もこもっていなかった。
「私が。……私が、あの子たちを、殺したのね」
「ご理解いただけて、光栄です」
彼女は、床についた自分の手を、じっと見つめていた。まるで、それが誰か知らない人の手みたいに。
そして、ゆっくりと、僕のほうへ顔を向けた。
その目に、光はなかった。
「……ごめんなさい」
掠れた声だった。
「私が、あなたを拾ったから」
「――ちが……っ」
「ごめんなさい。ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」
謝りながら、彼女は、動かなくなった。
戦うことも、立ち上がることも、もう、しなかった。
僕が知っている、あの凛とした背中は。もう、どこにもなかった。
「さて。では、そろそろ」
間引が、刃を返す。峰ではなく、刃のほうを。
「新芽から、片づけましょうか」
その切っ先が、床に伏せた僕へと向けられた。




