第20話『最後の一度』
黒く濁った水路の匂いが、鼻をついた。
「……え」
僕は、立っていた。
目の前に、幾筋もの水路。その上に渡された、細い桟橋。びっしりと並ぶ巨大な倉庫。荷が積まれたまま、人の姿だけがない、静まり返った施設。
中継地点。
到着したばかりの、あの瞬間だった。
「……人が、いませんね」
自分の口が、勝手に同じ台詞を紡いだ。誰も答えない。ツグミさんが鼻先を空へ向け、眉をひそめる。
(生きて、る……?)
心臓が、殴られたみたいに跳ねた。
胸を貫かれた。底が抜けた。落ちていく感覚があった。あれは間違いなく、終わりだった。Hだと、僕は確かに理解した。
なのに、僕はここにいる。
そして――戻された場所が、違う。
あの毒の朝ではない。もっと先。ここまで積み上げてきたものが、何ひとつ消えていない。集積所も、内通者のことも、みんなが辿り着いたこの場所も、全部そのまま残っている。
(戻る場所が、進んでる……?)
理由は分からない。それでも、事実として、僕はここに立っている。
もし、あの毒の朝まで巻き戻っていたら。僕はまた、倒れる仲間を見て、団長に呼ばれて、長い道のりを歩き直さなければならなかった。掴んだ手がかりも、全部もう一度、拾い直しだ。
そうならなかった。ここまでの積み重ねは、生きている。
――でも。それは同時に、もっと恐ろしいことも意味していた。
やり直せる範囲が、狭くなったということだ。ここから先で失敗すれば、僕が戻れるのは、この場所まで。あの男が待つ、この施設の入口まで。
*
みんなが警戒しながら周囲を検めている隙に、僕はそっと壁際へ寄って、拳を握った。
(……タイムランク)
手の甲に、光が浮かぶ。
〈G1〉。
同じだ。数字は、変わっていない。
でも――違う。
光が、あまりに弱かった。今にも消えそうに、ちらちらと明滅している。まるで、燃え尽きる寸前の蝋燭みたいに。
そして、体。
これまでとは比べものにならないほど、重い。腕を上げるだけで息が上がる。足の裏の感覚が薄く、地面を踏んでいる実感が乏しい。
分かってしまった。理屈じゃない。体が、教えてくる。
僕は今、崖の縁に、爪先だけで立っている。
三度目の死で、僕は本当に落ちかけた。落ちきる寸前で、この力が、無理やり僕を引き戻したんだ。
だから――もう、ない。
次はない。次に死ねば、今度こそ底が抜けて、僕は本当に、Hへ落ちる。
「……っ」
膝が、笑い出した。壁に手をついて、必死に体を支える。
呼吸が浅くなる。冷たい汗が、背中を伝った。
怖い。怖い。怖い。
僕は、この先で何が起きるかを知っている。この施設の最奥に、綺麗に並べられた毒がある。それに触れた瞬間、隔壁が落ちて、僕たちは分断される。そして、あの男が来る。
穏やかに笑いながら、庭の手入れだと言いながら。片手で、峰で、僕を転がして。読み切ることに恍惚としながら、最後に、心臓へ刃を落とす。
あれを、もう一度。
打たれ、転がされ、逃げ場を先回りされて。「次は右へ逃げますね」と、優しい声で宣告されながら。何をしても届かない、あの絶望を。
(……無理だ)
逃げ出したかった。ここで踵を返して、基地へ帰ってしまいたかった。
でも――逃げたら、どうなる。
倒れたままの仲間たちは、目を覚まさない。毒は流れ続ける。お嬢は、また一人であの男に挑んで、深く斬られる。この人たちが、僕の目の前でこぼれ落ちていく。
そして僕は、それを知っていながら、逃げた人間として、残りの一年を生きるんだ。
……そんなの、H行きより、よっぽど嫌だ。
顔を上げる。
震える足に、力を込めた。
怖いままでいい。震えたままでいい。それでも、動けないよりは、ずっとましだ。
一度きり。たった一度きりだけど、僕にはまだ、機会がある。それは、この場にいる誰も持っていないものだ。
僕は知っている。この先に罠があること。分断されること。あの男が来ること。あの男の癖まで、この目に焼きつけてきた。
力はない。能力もない。体は、これまででいちばん重い。
それでも――僕だけが、"先"を知っている。
(使い切ってやる。この、最後の一度を)
*
「隊列を細く。私が先頭、ユウマは中ほど。ツグミは殿で――」
指示を出しているお嬢の背中へ、僕は歩み寄った。
「あの、お嬢」
「何」
振り向いた彼女の目は、いつも通り冷たい。
言葉を、慎重に選ぶ。この先を知っている、なんて言えない。でも、知っているからこそ、伝えられることがある。
大事なのは、"僕が知っていること"を口にすることじゃない。この人たちが、自分の力で気づけるように、そっと石を置くことだ。
「この先、道がすごく狭くなるかもしれません。桟橋も、倉庫の通路も。……そうなったら、僕たちは縦一列にしか、なれない」
「それが?」
「もし途中で分断されたら、後ろの人は、前で何が起きてるか分からなくなります。だから――」
僕は、息を吸った。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。G1の新人が、団の誰よりも強い人に意見しようとしている。滑稽だと笑われても、おかしくない。
それでも、言わなきゃいけなかった。これは、二度の死で僕が掴んだ、たった一つの答えなのだから。
「段取りを、全員に共有しておいてもらえませんか。逃げる道も、集まる場所も、はぐれた時にどう動くかも。お嬢の頭の中にあるものを、全部」
お嬢の眉が、わずかに寄った。
「私が組んだ手順に、不備があると?」
「違います。逆です」
僕は、必死に首を振った。
「お嬢の段取りは、完璧すぎるんです。完璧すぎて――全部、お嬢一人の中にしか、ない」
彼女の動きが、止まった。
「もし、お嬢が動けなくなったら。誰も、次に何をすればいいか分からなくなる。……それって、いちばん危ないと思うんです」
自分でも驚くくらい、言葉が滑らかに出てきた。
これは、この三日で――いや、何度も繰り返したあの一日で、僕が身に沁みて理解したことだった。
たった一人がすべてを抱えている限り、その一人が読まれた瞬間、全部が崩れる。
「僕は弱いし、何の役にも立ちません。でも、知ってさえいれば、走ることくらいはできます。誰かに伝えることも」
「……」
沈黙が落ちた。生意気なことを言った、と今さら足が震える。
その静けさを破ったのは、意外にも、ツグミさんだった。
「あー……あたしは、賛成かな」
気だるげに頭を掻きながら、彼女は続けた。
「あんたの段取りは信用してる。けど、あんたが倒れた時の段取りだけは、あんたの頭の中にしかないでしょ。……それ、けっこう怖いよ」
シュンさんも、静かに頷いた。
「僕も、聞いておきたいな。……君は、いつも一人で全部持ちすぎるから」
「だから、お嬢」
顔を上げて、僕はまっすぐに彼女を見た。
「一人で、背負わないでください」
*
お嬢は、すぐには答えなかった。
ただ、僕を見た。ほんの数秒。それは、彼女にしては不自然なほど長い、沈黙だった。
「……」
何かを言いかけて、やめたように。薄く開いた唇が、また閉じる。
「あ、あの……すみません。生意気なことを」
「……いいえ」
短く答えて、彼女は視線を外した。水路の向こうの、何もない空へ。
その横顔は、いつもの冷たさのままだった。ただ、ほんの少しだけ――ここではない、どこか遠い場所を見ているように、僕には思えた。
伝わったのか、伝わらなかったのか。僕には分からない。
それでも、言えた。前の二回では、口にすることすらできなかったことを。
たった一歩。けれど、確かに、これまでとは違う一歩だった。
僕は重い体を引きずって、隊列へ戻る。この先に待っているものを、全部知りながら。




