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やり直すほど、弱くなる ~死に戻りの代償は寿命。無能の僕が『英雄の再来』と囁かれる理由を、僕だけが知らない~  作者: ふゆう
第一章 無能の始まり

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第20話『最後の一度』

黒く濁った水路の匂いが、鼻をついた。


「……え」


僕は、立っていた。


目の前に、幾筋もの水路。その上に渡された、細い桟橋。びっしりと並ぶ巨大な倉庫。荷が積まれたまま、人の姿だけがない、静まり返った施設。


中継地点。


到着したばかりの、あの瞬間だった。


「……人が、いませんね」


自分の口が、勝手に同じ台詞を紡いだ。誰も答えない。ツグミさんが鼻先を空へ向け、眉をひそめる。


(生きて、る……?)


心臓が、殴られたみたいに跳ねた。


胸を貫かれた。底が抜けた。落ちていく感覚があった。あれは間違いなく、終わりだった。Hだと、僕は確かに理解した。


なのに、僕はここにいる。


そして――戻された場所が、違う。


あの毒の朝ではない。もっと先。ここまで積み上げてきたものが、何ひとつ消えていない。集積所も、内通者のことも、みんなが辿り着いたこの場所も、全部そのまま残っている。


(戻る場所が、進んでる……?)


理由は分からない。それでも、事実として、僕はここに立っている。


もし、あの毒の朝まで巻き戻っていたら。僕はまた、倒れる仲間を見て、団長に呼ばれて、長い道のりを歩き直さなければならなかった。掴んだ手がかりも、全部もう一度、拾い直しだ。


そうならなかった。ここまでの積み重ねは、生きている。


――でも。それは同時に、もっと恐ろしいことも意味していた。


やり直せる範囲が、狭くなったということだ。ここから先で失敗すれば、僕が戻れるのは、この場所まで。あの男が待つ、この施設の入口まで。



みんなが警戒しながら周囲を検めている隙に、僕はそっと壁際へ寄って、拳を握った。


(……タイムランク)


手の甲に、光が浮かぶ。


〈G1〉。


同じだ。数字は、変わっていない。


でも――違う。


光が、あまりに弱かった。今にも消えそうに、ちらちらと明滅している。まるで、燃え尽きる寸前の蝋燭みたいに。


そして、体。


これまでとは比べものにならないほど、重い。腕を上げるだけで息が上がる。足の裏の感覚が薄く、地面を踏んでいる実感が乏しい。


分かってしまった。理屈じゃない。体が、教えてくる。


僕は今、崖の縁に、爪先だけで立っている。


三度目の死で、僕は本当に落ちかけた。落ちきる寸前で、この力が、無理やり僕を引き戻したんだ。


だから――もう、ない。


次はない。次に死ねば、今度こそ底が抜けて、僕は本当に、Hへ落ちる。


「……っ」


膝が、笑い出した。壁に手をついて、必死に体を支える。


呼吸が浅くなる。冷たい汗が、背中を伝った。


怖い。怖い。怖い。


僕は、この先で何が起きるかを知っている。この施設の最奥に、綺麗に並べられた毒がある。それに触れた瞬間、隔壁が落ちて、僕たちは分断される。そして、あの男が来る。


穏やかに笑いながら、庭の手入れだと言いながら。片手で、峰で、僕を転がして。読み切ることに恍惚としながら、最後に、心臓へ刃を落とす。


あれを、もう一度。


打たれ、転がされ、逃げ場を先回りされて。「次は右へ逃げますね」と、優しい声で宣告されながら。何をしても届かない、あの絶望を。


(……無理だ)


逃げ出したかった。ここで踵を返して、基地へ帰ってしまいたかった。


でも――逃げたら、どうなる。


倒れたままの仲間たちは、目を覚まさない。毒は流れ続ける。お嬢は、また一人であの男に挑んで、深く斬られる。この人たちが、僕の目の前でこぼれ落ちていく。


そして僕は、それを知っていながら、逃げた人間として、残りの一年を生きるんだ。


……そんなの、H行きより、よっぽど嫌だ。


顔を上げる。


震える足に、力を込めた。


怖いままでいい。震えたままでいい。それでも、動けないよりは、ずっとましだ。


一度きり。たった一度きりだけど、僕にはまだ、機会がある。それは、この場にいる誰も持っていないものだ。


僕は知っている。この先に罠があること。分断されること。あの男が来ること。あの男の癖まで、この目に焼きつけてきた。


力はない。能力もない。体は、これまででいちばん重い。


それでも――僕だけが、"先"を知っている。


(使い切ってやる。この、最後の一度を)



「隊列を細く。私が先頭、ユウマは中ほど。ツグミは殿で――」


指示を出しているお嬢の背中へ、僕は歩み寄った。


「あの、お嬢」


「何」


振り向いた彼女の目は、いつも通り冷たい。


言葉を、慎重に選ぶ。この先を知っている、なんて言えない。でも、知っているからこそ、伝えられることがある。


大事なのは、"僕が知っていること"を口にすることじゃない。この人たちが、自分の力で気づけるように、そっと石を置くことだ。


「この先、道がすごく狭くなるかもしれません。桟橋も、倉庫の通路も。……そうなったら、僕たちは縦一列にしか、なれない」


「それが?」


「もし途中で分断されたら、後ろの人は、前で何が起きてるか分からなくなります。だから――」


僕は、息を吸った。


心臓が、うるさいくらいに鳴っている。G1の新人が、団の誰よりも強い人に意見しようとしている。滑稽だと笑われても、おかしくない。


それでも、言わなきゃいけなかった。これは、二度の死で僕が掴んだ、たった一つの答えなのだから。


「段取りを、全員に共有しておいてもらえませんか。逃げる道も、集まる場所も、はぐれた時にどう動くかも。お嬢の頭の中にあるものを、全部」


お嬢の眉が、わずかに寄った。


「私が組んだ手順に、不備があると?」


「違います。逆です」


僕は、必死に首を振った。


「お嬢の段取りは、完璧すぎるんです。完璧すぎて――全部、お嬢一人の中にしか、ない」


彼女の動きが、止まった。


「もし、お嬢が動けなくなったら。誰も、次に何をすればいいか分からなくなる。……それって、いちばん危ないと思うんです」


自分でも驚くくらい、言葉が滑らかに出てきた。


これは、この三日で――いや、何度も繰り返したあの一日で、僕が身に沁みて理解したことだった。


たった一人がすべてを抱えている限り、その一人が読まれた瞬間、全部が崩れる。


「僕は弱いし、何の役にも立ちません。でも、知ってさえいれば、走ることくらいはできます。誰かに伝えることも」


「……」


沈黙が落ちた。生意気なことを言った、と今さら足が震える。


その静けさを破ったのは、意外にも、ツグミさんだった。


「あー……あたしは、賛成かな」


気だるげに頭を掻きながら、彼女は続けた。


「あんたの段取りは信用してる。けど、あんたが倒れた時の段取りだけは、あんたの頭の中にしかないでしょ。……それ、けっこう怖いよ」


シュンさんも、静かに頷いた。


「僕も、聞いておきたいな。……君は、いつも一人で全部持ちすぎるから」


「だから、お嬢」


顔を上げて、僕はまっすぐに彼女を見た。




「一人で、背負わないでください」





お嬢は、すぐには答えなかった。


ただ、僕を見た。ほんの数秒。それは、彼女にしては不自然なほど長い、沈黙だった。


「……」


何かを言いかけて、やめたように。薄く開いた唇が、また閉じる。


「あ、あの……すみません。生意気なことを」


「……いいえ」


短く答えて、彼女は視線を外した。水路の向こうの、何もない空へ。


その横顔は、いつもの冷たさのままだった。ただ、ほんの少しだけ――ここではない、どこか遠い場所を見ているように、僕には思えた。


伝わったのか、伝わらなかったのか。僕には分からない。


それでも、言えた。前の二回では、口にすることすらできなかったことを。


たった一歩。けれど、確かに、これまでとは違う一歩だった。


僕は重い体を引きずって、隊列へ戻る。この先に待っているものを、全部知りながら。

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