第19話『庭師』
積み上がった木箱の上に、その男は座っていた。
いつからそこにいたのか、まるで分からなかった。細身の体を、飾り気のない黒衣に包んでいる。歳は、三十半ばくらいだろうか。髪はきっちりと撫でつけられ、表情は驚くほど穏やかだった。
腰から下げているのは、剪定鋏のような、細く湾曲した刃。
一見すると、どこにでもいる物静かな男だ。凄みも、殺気もない。なのに、その場の空気だけが、じっとりと重い。まるで、この倉庫の中の音という音を、彼の存在が吸い取ってしまったみたいだった。
「ようこそ、中継地点へ。長い道のり、お疲れさまでした」
男は、まるで客を迎えるように、丁寧に頭を下げた。
「申し遅れました。私、間引 芽生と申します」
その名を聞いた瞬間、お嬢の空気が、変わった。
「……あなたが、間引」
「おや。ご存じでしたか」
「新人ばかりを狙って消している男。……ずっと、追っていたわ」
「光栄です」
間引は、心底うれしそうに微笑んだ。
「ですが、"消している"は、少々語弊がありますね。私はただ、庭の手入れをしているだけですから」
「……手入れ?」
「ええ。芽が出すぎた畝は、間引かねばなりません。全部を残そうとすれば、どれも育たず、畑ごと痩せていく。……だから、育たぬ芽は、育つ前に摘む」
穏やかな声のまま、彼は続けた。
「お考えになったことはありませんか。私たちリミトロフは、なぜ、ここにいるのか」
「……何が言いたいの」
「現世で一度死に、それでもなお、在ることを許された者たち。私たちは、選ばれたのですよ。……ですが、それで終わりではない。選ばれた者の中から、さらに選び抜かれてこそ、意味がある」
彼の目が、ゆっくりと僕を捉えた。
品定めするでもなく、蔑むでもない。ただ、畝に並んだ苗を数えるみたいな目つき。その無関心さが、かえって恐ろしかった。
「力ある者だけが残り、力なき者は土へ還る。それが、この世界が私たちに示している理です。私たちは、その理に従って、次の人類になる」
「弱い者を殺すことを、そんな言い方で飾らないで」
「飾ってなどおりませんよ」
彼は、心外だとでも言うように、少しだけ首を傾げた。
「弱きものを生かしておくことこそ、残酷なのです。守られ、庇われ、養われて。その果てに待つのは、より惨めな消滅だけだ。……ならば、まだ何も知らぬうちに摘んで差し上げるのが、慈悲というものでしょう」
背筋が、ぞわりと粟立った。
この人は、人を殺すことを――草むしりと同じ次元で、しかも善行として語っている。
「毒も、あなたね」
「はい。効率がよろしいでしょう。弱い芽だけが、勝手に萎れてくれる。……力ずくで砦を攻めるなんて、無粋なことは致しません」
「――ふざけないで」
お嬢の声が、初めて、はっきりと怒気を帯びた。
*
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
見えたのは、青い光の残像だけ。目で追う暇もない。ただ、間引が座っていた木箱が、爆ぜるように吹き飛んだ。
木片が舞う。だが、その中心に、彼はもういない。
「ええ、そう来ます」
いつのまにか、間引は数歩離れた床に降り立っていた。
「あなたは怒ると、必ず初手で最短距離を取る。踏み込みの三歩目で軸足が沈む癖も、そのままだ」
お嬢が、間合いを詰める。左、右、そして下から。目にも留まらない連撃。
そのすべてを、間引は半歩ずつずらして躱していく。防ぐのでも、受けるのでもない。ただ、"当たらない場所"へ体を置き続けている。
「次は、右の肘を跳ね上げますね」
言ったそばから、お嬢の肘が跳ね上がった。
「その次は、左足で踏み替えて、逆から。……ええ、そうです」
読まれている。動きも、癖も、思考も、何もかも。
背筋が凍った。あの、圧倒的に強いお嬢が。何一つ、当てられない。
「あなたは、本当に美しい戦い方をなさる。一切の無駄がない。……ですが」
間引の湾曲した刃が、初めて、閃いた。
肩から腰へ。お嬢の体が、赤く裂ける。
「無駄がないということは、選択肢がないということです」
血飛沫を撒きながら、それでもお嬢は退がらなかった。むしろ、踏み込んだ。
でも、それすらも読まれていた。踏み込んだ先に、すでに刃が置かれている。彼女は自分から、その刃へ飛び込む形になった。
(……勝てない)
認めたくなかった。誰よりも速くて、誰よりも綺麗に戦うあの人が。何をしても、届かない。
一人で挑む限り、この人には、絶対に勝てないんだ。
「お嬢、逃げて……!」
叫んだ僕を、間引の目が、ちらりと捉えた。
「そう。それです」
彼は、微笑んだ。
「あなたには、致命的な癖がある。……新人が視界に入ると、必ず、そちらを庇う」
刃が、方向を変えた。お嬢ではなく、まっすぐに、僕へ。
「――ユウマ!」
お嬢が、傷ついた体で、僕の前へ飛び込んでくる。読まれていると分かっていても、その体は止まらない。
間引の刃が、彼女の背中を深く抉った。
「ぐ、う……っ!」
膝をつくお嬢。それでも彼女は、僕の襟首を掴んで、後ろへ突き飛ばした。
「逃げ、なさい……っ!」
*
僕は転がりながら、必死に立ち上がった。走った。壁沿いに、出口を探して。
間引は、追ってすら来なかった。ただ、散歩でもするみたいに、ゆっくりと歩いてくる。
「そう慌てずとも。新芽を摘むのに、走る必要などありませんよ」
倉庫の隅。行き止まり。振り返ると、彼はもう、すぐそこにいた。
僕は、震える手で足元の木箱を掴み、力任せに投げつけた。
軽い。あまりにも、軽い。G1の腕から放たれたそれは、彼の手前でくるりと払いのけられ、乾いた音を立てて転がった。
「では、少し遊びましょうか」
間引が、刃をくるりと返した。刃ではなく、峰。彼は、自分の左手を、ゆるりと背中へ回す。
「片手で、峰で。……これで充分でしょう」
侮辱ですらなかった。ただ、事実を確認しているだけの声だった。
「まず、右へ逃げますね」
僕は、右へ跳んだ。
跳んでから、気づいた。言われた通りに動いてしまったことに。
肩に、鈍い衝撃。峰で打たれ、僕は無様に床を転がった。息が詰まる。
「次は、立って、左」
――違う。今度は、逆へ。
そう決めて、右へ走った。
腹に、衝撃。膝から崩れる。
「ふふ。……"逆をかこう"と考えた時点で、それも私が指した先ですよ」
意味が、分からなかった。逃げても、逆をかいても、その先に必ず彼がいる。
もう一度立ち上がる。倒される。這って逃げる。回り込まれる。
腕を打たれ、脚を払われ、床に叩きつけられて。全身が痛みで軋んでも、彼は決して、致命傷だけは与えなかった。
「ああ……いい」
ふと、間引の声の色が、変わった。
彼は、うっとりと目を細めていた。半ば伏せた瞼の奥で、瞳が濡れたように光っている。指先が、微かに震えていた。まるで、極上の一皿を口に運ぶ直前の人みたいに。
「人の思考というのは、こうも澄んで見えるものなのですね。……恐怖に染まった心は、殊のほか読みやすい。次に何を考えるか、何を選ぶか。全部、手のひらの上に並んでいる」
ぞわり、と全身が総毛立った。
この人は、殺すことを楽しんでいるんじゃない。読み切ることそのものに、恍惚としている。
「もっと、あがいてご覧なさい。あなたが必死に考えるほど、私には、美しく見えるのです」
悔しさで、涙が滲んだ。
弄ばれている。転がされ、打たれ、"次はこう動く"と宣告されながら。何一つ、思い通りにならない。
――でも。
痛みと恐怖で霞む頭の隅で、僕は、必死に目を凝らしていた。
躱す時、この人は決して大きく動かない。いつも、半歩。
刃を振るう前、右手が一度だけ、内側へ小さく返る。
踏み込むのは、決まって、僕が息を吸った瞬間。
そして、回り込む時は、必ず時計回り。
(覚えろ。ぜんぶ、覚えろ)
何の役に立つかも分からない。それでも、僕にできるのは、それだけだった。
「……さて」
やがて、間引の声から、熱が引いた。
「そろそろ、萎れていただきましょうか」
刃が、返る。今度は、峰ではなかった。
*
胸に、衝撃。
――ああ、また、だ。
三度目の、この感覚。冷たさが、胸から全身へ広がっていく。
でも、今度は、明らかに、これまでと違った。
体の芯から、何かが底なしに抜け落ちていく。まるで、立っていた床そのものが崩れて消えていくみたいに。掴まるものが、何もない。落ちていく。どこまでも。
(……ああ)
分かってしまった。
二度の死で、僕のタイランは、Gの底にへばりついていた。三度目で、その底が、抜けたんだ。
Hだ。
もう、戻れない。誰の記憶にも残らないまま、僕という存在が、跡形もなく消える。
倒れたままのお嬢の姿が、霞んでいく。ごめんなさい。何も、変えられなくて。
隣に立ちたいと願った、あの背中にも。結局、一度も、追いつけなかった。
(……終わり、か)
暗闇が、静かに、僕を飲み込んだ。




