第17話『知らない先へ』
粉塵が、ゆっくりと晴れていく。
耳鳴りの残る頭で、僕はぼんやりと空を見上げた。永遠の黄昏みたいな、赤黒い空。荷を運ぶ音も、人の声もない、静まり返った集積所。
……生きて、いる。
その事実に気づいた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
前の二回、僕はもう、ここにいなかった。天井が崩れ、囲みから引き剥がされて、首筋に冷たいものを感じて――それで終わりだった。
なのに今、僕は立っている。息をして、空を見上げて、瓦礫の匂いを嗅いでいる。
死ぬはずだった時間を、僕は初めて、越えたのだ。
途端に、手足が震え出した。恐怖が、今ごろになって追いついてきたらしい。歯の根が合わない。呼吸が浅くなる。二度も味わったあの終わりを、今度は味わわずに済んだ。その安堵が、涙になって滲みそうになるのを、僕は必死に堪えた。
泣くのは、まだ早い。倒れた仲間たちは、今も基地で眠ったままなのだから。
「――ユウマ。無事?」
お嬢の声に、はっと我に返る。
「あ……はい。かすり傷だけ、です」
「そう」
それだけ言うと、彼女はすぐにメルドさんのほうへ向かった。相変わらず素っ気ない。それでも、真っ先に僕の名前を呼んでくれたことに、なぜだか少しだけ、救われた気がした。
*
メルドさんの傷は、思っていたより深かった。
脇腹と、両腕。斬られた場所から、じわりと血が滲み続けている。獣化を解いた体は、ひと回り小さくなって、その分だけ痛々しく見えた。
「情けねぇ。爺さん一人に、ここまでやられるとはな」
「充分だよ。あの相手を、ちゃんと生きたまま押さえたんだから」シュンさんが手当てをしながら言う。「……押さえた後に、ああなるとは思わなかったけどね」
僕も、包帯を押さえるのを手伝った。近くで見ると、傷はどれも深く、獣の毛皮に血がべっとりと固まっている。この人は、僕を庇うように前に出て、これだけの傷を負ったのだ。
「……なんだ、辛気くせぇ顔しやがって」
僕の顔を見たメルドさんが、ふん、と鼻を鳴らした。
「言っとくがな、坊主。今日のは、お前のお手柄だ。お前が内通者の話を出さなきゃ、あの爺さんは今も涼しい顔で、俺たちの後ろに立ってたんだぜ」
胸が、詰まった。ありがとうございます、と言うのが精いっぱいだった。
老人が消えた場所には、丸く抉れた地面と、砕けた小さな殻の欠片が残るだけだった。
誰かの命を材料にした力で、自分の体ごと、口を封じた。その事実の重さが、まだ胃の底で冷たく居座っている。
「収穫は、あったわ」
お嬢が、皆を見回して言った。
「経路の中に内通者がいた。それも、集積所の管理者という、荷の流れをいくらでも動かせる立場の人間が。そして、毒が入った日の荷だけ、記録に理由を残さないまま、別の中継地点を通っている」
「……つまり、毒はその中継地点で盛られた可能性が高い」シュンさんが続けた。「あの管理者は、荷をそこへ回す役目だったんだ」
繋がった。ばらばらだった点が、一本の線になっていく。
胸の奥が、熱くなった。二度死んで、二度何も掴めずに終わった。それが今度は、ここまで来られた。前に進んでいる。確かに、進んでいる。
「なら、次は中継地点だな」メルドさんが、痛みを堪えながらニヤリと笑う。「行くんだろ、お嬢」
「あなたは戻りなさい。その傷で戦えるとでも?」
「馬鹿言え。この程度――」
「……メルド」
短く名前を呼んだだけだった。それだけで、メルドさんはぐっと言葉を飲み込んだ。
「基地へ報せを送るわ。倒れた者たちのために、毒の元は一刻も早く止めなきゃならない。中継地点へは、動ける人数で向かう」
シルビィの言葉が、頭をよぎる。毒が体の外から入り続けたら、もたない、と。今この瞬間も、倒れた仲間たちの時間は削られ続けている。戻って報告してから、なんて悠長なことは、していられない。
てきぱきと段取りが決まっていく。その手際を見ながら――僕は、そっと拳を握った。
*
……ここから先の展開を、僕は知らない。
前の二回、僕の記憶はここで途切れている。中継地点がどんな場所なのか。そこに何が待っているのか。まるで、わからない。
僕の唯一の武器は、“この先を知っている”ことだった。それだけを頼りに、二度分の死を無駄にしないよう、必死に手繰り寄せてきた。
その武器が、今、尽きた。
ここから先は、みんなと同じだ。何が起きるかわからないまま、その場で考えて、その場で選ぶしかない。
(……怖い、な)
正直な気持ちだった。知らない道を歩くのが、こんなに心細いなんて。
でも――同時に、思う。
知らないということは、まだ何も決まっていないということだ。二度繰り返したあの結末に、僕はもう縛られていない。この先の一歩は、誰の筋書きでもない、僕たちが選んだ一歩なんだ。
もっとも――と、僕は自嘲する。もし、この先で死んでしまえば。世界はまた、あの毒の朝に巻き戻る。せっかく掴んだ内通者も、中継地点の手がかりも、全部きれいに消えて、僕だけがまた一つ弱くなって、最初からやり直しだ。
だから、絶対に死ねない。今日の僕には、守るものが、ちゃんとある。
「ユウマ」
顔を上げると、お嬢がこちらを見ていた。
「あなたも来なさい。ここに置いていくほうが危険だわ。……それに」
一拍、置いて。
「今日は、あなたの気づきが、二度も流れを変えた。次も、何か見えるかもしれない」
思わず、目を見開いた。
素っ気ない声だった。褒め言葉ですらないのかもしれない。それでも、僕の中で、何かがじんわりと熱を持った。
無能と呼ばれた僕が。二度死んで、弱くなるばかりの僕が。それでも、この人の役に立てている。
「……はい。行きます」
*
出発の直前、周囲を見に行っていたツグミさんが戻ってきた。その顔から、いつもの気だるさが消えている。
「お嬢。……ちょっと、嫌なもの見つけた」
「何」
「あそこの倉庫の屋根。誰かが、しばらく座り込んでた跡がある。匂いも残ってた」
ツグミさんが、路地のほうを顎で示した。
「たぶん、あの騒ぎの間、ずっとそこにいたね。……逃げも隠れもしないで、上から、あたしらを見てた」
背筋が、ぞくりと冷たくなった。
メルドさんと老人の死闘も。爆発も。その後の僕たちのやりとりも。全部、誰かが静かに見下ろしていた。
しかも、その誰かは、助けにも、襲いにも来なかった。ただ見て――そして、去った。
助ける気がないなら、なぜ見ていたのか。襲う気がないなら、なぜそこにいたのか。答えは、たぶん一つしかない。……確かめていたのだ。僕たちが、どこまで辿り着けるのかを。
「……仲間を見殺しにして、それでも何もせず、ただ観ていた、ということね」
お嬢の声が、低く沈む。
そう。あの老人が自ら死を選んだ時ですら、その人物は動かなかったのだ。手駒が一つ失われることなど、痛くも痒くもない。そう言われているようで、ぞっとした。
僕たちのやることは、たぶん、最初から誰かに見られている。
その事実を胸の奥に飲み込んで、僕は、知らない道へと足を踏み出した。




