第16話『人は見た目で判断しない』
「――下がってろ、坊主」
メルドさんが、僕の前に腕を突き出した。
その背中が、みるみる膨れ上がる。骨が軋み、筋肉が盛り上がり、腕の毛が逆立っていく。爪が伸び、口から覗く牙が、いっそう鋭さを増した。
獣化。メルドさんの能力だ。
「爺さん。悪ぃが、手加減はしねぇぞ」
「結構」
老人は、答えながら、腰を落とした。
刀を正面に構えるのでもなく、だらりと下げるのでもない。柄に手を添えたまま、体をわずかに半身に開く。ただ、それだけ。なのに、その構えを見た瞬間、僕の全身に鳥肌が立った。
隙がない。素人の僕にすら、それがわかった。この人は、強い。
(なんで、こんな人が。集積所の管理者なんて、やってるんだ)
疑問が、恐怖と一緒にせり上がってくる。あの穏やかな老人は、最初から最後まで、演技だったのだ。
僕は路地の壁際まで下がった。G1の僕には、この戦いに割り込む力なんて、欠片もない。できるのは、目を逸らさずに見ていることだけだ。それでも――今度こそ、この目に焼きつけておく。次に活かすために。
「――っ」
先に動いたのは、メルドさんだった。
砂利を蹴散らし、獣の脚力で一息に距離を詰める。豪腕が横薙ぎに振るわれ、風が唸った。当たれば、老人の体など軽々と吹き飛ぶ。そう思った。
老人は、退かなかった。
半歩。ほんの半歩、体を沈める。それだけで、爪はその頭上を空しく通り過ぎた。
そして、白刃が閃く。
「ぐっ……!」
メルドさんの脇腹に、赤い線が走った。獣の毛皮を裂き、肉に食い込む。反射的に飛び退るその動きの内側へ、老人はすでに踏み込んでいる。
速い。いや――速さじゃない。動きに、無駄が一つもないのだ。
「速さは若い方が上。ですが、剣は、そういう競技ではありませんのでな」
老人の刃が、蛇のように角度を変えて、下から跳ね上がった。
メルドさんが咄嗟に腕で受ける。骨に当たる鈍い音。血が飛んだ。それでもメルドさんは怯まず、その腕ごと、老人を掴みにかかった。
だが、掴めない。老人は掴まれる直前に、必ず半歩だけ退がっている。まるで、メルドさんの手が届く距離を、正確に測り切っているみたいに。
獣化は、体を強引に作り変える力だ。使えば使うほど、活力は削られていく。メルドさんの息が、少しずつ荒くなっていくのが、離れた場所からでもわかった。対して老人は、ほとんど息を乱していない。動きが小さいぶん、消耗も小さいのだ。
まずい。長引けば、押し切られる。素人の僕にすら、その流れが見えてしまった。
「威勢がいいのは結構ですが。……あなた、力任せに掴む癖がありますな」
「うるせぇ」
「その癖、直しておくべきでした」
老人の刃が、メルドさんの伸ばした腕を、下から掬い上げるように斬りつける。血飛沫。それでもメルドさんは腕を引かなかった。
「捕まえた、っつってんだよ!」
老人の刃が、掴まれる寸前で翻る。柄頭が、メルドさんの顎を撥ね上げた。
一瞬、視界が飛んだのだろう。メルドさんの巨体が、大きくよろめく。
その隙へ、白刃が、まっすぐに、喉を狙って伸びた。
「メルドさん――!」
叫んだ。何もできない自分の無力さごと、喉が裂けそうなほど叫んだ。
けれど。
刃が届く、その寸前。
――メルドさんは、笑った。
「かかったな、爺さん」
伸びきった老人の腕を、獣の手が、掴んだ。
そのまま、力任せに引き寄せる。老人の体が、初めて泳いだ。技も、間合いも、そこにはない。ただ、圧倒的な膂力だけがあった。
「がっ……!」
老人の体が、倉庫の壁に叩きつけられた。びしり、と壁が割れる。落ちてくる小柄な体を、メルドさんは容赦なく地面へねじ伏せた。刀が、乾いた音を立てて転がる。
「はぁ、はぁ……。悪ぃが爺さん、俺は避けるのは苦手でな。……代わりに、殴られながら掴むのは、得意なんだよ」
脇腹から血を滴らせ、荒い息を吐きながら。それでも、メルドさんは老人を離さなかった。
戦いは、終わった。
そのはずだった。
*
駆けつけたお嬢が、油断なく刀を蹴り遠ざけ、ツグミさんが老人の身柄を押さえにかかる。
「誰の指示。何のために、毒を盛った」
お嬢の問いに、老人は答えなかった。
ただ――ふっと、笑った。
その静かな笑みに、僕の背筋が、ぞわりと粟立つ。何かがおかしい。追い詰められた人間の顔じゃない。
「……いけない。あなた方は、思っていたより、ずっと厄介だ」
押さえられた手が、懐へ滑り込む。
「ここまでですな」
「――離れて!!」
お嬢の絶叫と、老人が握りしめた小さな何かが砕ける音は、ほとんど同時だった。
*
轟音。
視界が白く飛んだ。爆風が、路地の空気ごと僕を殴りつける。体が浮き、背中から地面に叩きつけられた。耳の奥が、きぃんと鳴っている。
「げほっ……メルドさん……!」
粉塵の中を這うようにして探すと、メルドさんは、頭から血を流しながらも、なんとか身を起こしていた。爆発の瞬間、獣の反射で跳び退っていたらしい。
「……くそ。あの野郎。自分ごと、吹っ飛びやがった」
砂煙が晴れていく。
老人が倒れていた場所には――もう、原形をとどめたものは、何も残っていなかった。
血の匂いと、焦げた臭い。そして、爆心のごく狭い一角だけが、まるで丸く抉り取られたように、崩れている。
「……妙ね」
お嬢が、目を細めた。
「これだけの威力なのに、範囲が狭すぎる。まるで、自分の周りだけを狙って、爆ぜたみたい」
「――これ、見て」
しゃがみ込んだツグミさんが、瓦礫の中から、何かを摘まみ上げた。
指先にあったのは、砕けた小さな筒。透明な殻の欠片には、赤黒い液体がこびりついている。
その残骸を見た瞬間、シュンさんの顔から、血の気が引いた。
「……能力カプセル」
「知ってるんですか」
「使い捨ての道具だよ。一度だけ、他人の能力を、自分の能力みたいに使える」
シュンさんの声が、いつになく硬い。
「でも、これは――禁忌なんだ。中に入っているのは、その能力を持っていた人間の、血と肉だ。人ひとりを材料にして、その力を封じ込めてある」
背中に、冷たいものが走った。
「材料に、される人がいるんだ」
シュンさんは、吐き捨てるように続けた。
「身売りされた子ども。攫われて、人体実験みたいなことをやってる連中に、売られた人たち。……そういう人たちの、行き着く先の一つが、これだよ」
胃の底が、ぐっと冷たくなった。
手のひらに乗る、こんな小さな筒。その中身が、誰かの一生だったなんて。名前も、顔も、これまで生きてきた時間も。全部、この赤黒い液体に変えられて、たった一度きりの力として、使い捨てられる。
そんなことが、この世界では、商いとして成立している。
「作る連中がいて、買う連中がいる。……僕らも、何度か根元を掴もうとしたよ。でも、そのたびに逃げられてきた。あまりにも根が深すぎるんだ」
シュンさんが、いつになく苦い顔で、砕けた殻を見つめる。
その横でお嬢が、砕けた殻の欠片を静かに見下ろしていた。その横顔には、はっきりと怒りが滲んでいる。
「口を割らせる前に、消された。……手がかりを、一つ潰されたわね」
つまり、あの老人は。誰かの命を材料にした力を握りしめて、自分の体ごと、証拠を消したのだ。
僕は、崩れた爆心を、呆然と見つめた。
丸く抉れた地面。狭い範囲。ごく近くのものだけを、確実に巻き込む爆発。
……ああ。
――そうか。
あの日。
天井が崩れ落ちて、僕がみんなの囲みから引き剥がされた、あの爆発。あれも、これだったんだ。仕掛けられた罠なんかじゃない。誰かが、こうして自分ごと、あるいは僕ごと、吹き飛ばすために使った――同じ、力。
僕の一度目の死は。この、小さな筒から始まっていた。
背筋が凍りつく。
けれど、それ以上に、僕の頭を占めたのは。まるで違う、たった一つの疑問だった。
(……なんで、この人たちは。ここまでするんだ)
内通者を仕込み、毒を流し、証拠を消すために、命ごと自分を捨てる。
低ランクを狙った、ただの狩り。そんな言葉では、まるで説明がつかない。
この毒の朝の裏側には――僕が思っているよりずっと大きくて、ずっと執拗な、何かが潜んでいる。
粉塵の舞う路地で。僕は初めて、その底知れなさに、震えた。




