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ぼくの裾が揺れる春  作者: うつチャリンカー


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第05話 小さな収集

イメージ曲 https://youtu.be/lBXCNkNqKzU

全18話 19時公開

 それから、ぼくは帰り道で駄菓子を買わなくなった。


 十円のガム。三十円のラムネ。前の町にいたころから、なんとなく買っていたものだ。学校の門を出てすぐの角に小さな店があって、みんなが立ち寄る。ぼくも前なら、手の中の小銭をなんとなく使っていた。けれど、ワンピースの裾の下に見えた新幹線の絵を思い出すたび、十円玉一枚の見え方まで変わった。


 宮下蓮がアイスをくわえながら、「相沢、今日なんも買わねえの」と聞いてきたことがある。


「……うん」


「へえ。珍し」


 それだけ言って、蓮はすぐ別の話を始めた。助かったような、つまらないような気持ちになる。ぼくは何も買わないまま店の前を通り過ぎて、ポケットの中で小銭の丸い縁を指先で確かめた。


 家でも、前よりよく動くようになった。


 夕飯のあと、皿を流しへ運ぶ。洗った茶碗を拭く。風呂上がりに、自分の分だけじゃなく父のシャツまで一緒にたたむ。最初は本当に小さいことだけだった。けれど母はすぐ気づいた。


「どうしたの、最近」


 洗濯物の山からタオルを取ろうとしていた母が、少し笑う。


「別に」


「別に、でこんなに手伝う?」


「……暇なだけ」


 そう答えると、母は納得したようなしないような顔をした。それでも止めはしなかった。土曜日、買いもの袋を両手に下げて帰ってきた母が、「冷蔵庫の野菜入れるの手伝って」と言い、そのあとで財布の中から百円玉を一枚出してきたことがある。


「おつかい頼んだわけじゃないけど、助かったから」


 ぼくは一度だけためらってから、それを受け取った。百円玉は軽いのに、手のひらの中ではやけに頼もしく感じた。


 机のいちばん上の引き出しに入れたクッキー缶は、前より少しだけ鳴り方が変わった。ふたを開けて机にあけると、前は心細かった音が、いまは少しだけ集まって聞こえる。百円玉、五十円玉、十円玉。数え終わるたびに、もう一度数えた。足りるかどうかより、増えていることを確かめたかった。


 最初に買ったのは、靴下だった。


 駅前の百円ショップは、学校の子に会っても変じゃない場所だった。文房具を買いに来た顔もできるし、実際に消しゴムをひとつ持ってレジへ行くこともできる。その奥の衣料品コーナーで、ぼくはしばらくしゃがみこんでいた。


 白い靴下は何種類もあった。くるぶしまでの短いもの。ふくらはぎの途中まであるもの。口のところに小さなレースがついたもの。大きなフリルのあるのは、見ているだけで自分には難しそうだった。かわいいと思うのと、自分が持ち帰れるのは、同じじゃない。


 結局、選んだのは、白くて、少しだけ長いものだった。口のところに細い編み目が入っていて、遠くから見ればただの靴下に見える。近くで見れば、ほんの少しだけ女の子のものだった。


 それと、小さな丸い鏡も買った。手のひらにのるくらいの大きさで、ふちが白い。化粧品売り場の鏡ほどきらきらしていない、ただの鏡だ。それでも、自分の部屋の姿見とは違う距離で顔や胸元を見られる気がした。


 レジで百円玉を三枚出すとき、前みたいな震えは少しだけ薄かった。ワンピースを買ったときのほうが、ずっと大きかったからだと思う。それでも袋に入った白い靴下を受け取ると、胸の奥では静かに何かが鳴っていた。


 次に行ったのは、駅から少し離れたリサイクルショップだった。


 店の中は、前に買った服屋とは匂いが違った。新しい布の匂いじゃない。洗剤の匂いと、古い棚の木の匂いと、いろんな家を通ってきた服の気配が混ざっている。ハンガーもばらばらで、値札の紙も少し丸まっていた。


 そこでは、じっくり見られた。


 新品の店より、こっちのほうが不思議と息がしやすい。どれも少し前まで誰かのものだったからか、最初からきれいに整いすぎていない。そのゆるさの中で、ぼくは子ども服のラックを一枚ずつずらした。


 薄いクリーム色のカーディガンがあった。胸のところに小さな花みたいな編み目がある。ボタンは白で、ひとつだけ少し違う色に替えられていた。たぶん前の持ち主の家でつけ直したんだろうと思う。新品なら嫌かもしれないけれど、その違いは、なぜか目立つ傷には見えなかった。


 ぼくはそれを腕にかけてみた。軽い。ワンピースの上に重ねたらどうなるだろうと考える。裾の見え方が少し変わるかもしれない。肩の線も、いまよりやわらかく見えるかもしれない。


 値札は三百円だった。


 買える、と思った。そう思うと同時に、ほんとうにここまで増やしていいのかという気持ちも少し出てくる。けれど、その迷いはハンガーを戻す手のところで止まった。戻したら、また誰かのものになる。そう考えたら、指が離れなかった。


 カーディガンは、白いビニール袋の中で静かにたたまれた。帰り道、袋の中身はワンピースのときよりもっと軽かったのに、頭の中では何度も重ねてみていた。水色の上にクリーム色。白い靴下。そこまで揃えた姿を考えるだけで、歩幅が少し変わる。


 通販を初めて見たのは、家の居間の隅にあるパソコンだった。


 母が買いものの値段を見比べるときや、父が仕事のメールを開くときに使うやつだ。夜、二人が風呂に入っているあいだだけ、ぼくは椅子に座って画面をのぞいた。検索窓に何を入れればいいのかも最初はわからない。女の子の下着、と打つのがこわくて、何度も消した。結局、ジュニア ショーツと打って、出てきた文字をじっと見る。


 画面の中には、いろんな形があった。


 リボンのあるもの。花柄。二枚組。三枚組。白地に小さい柄だけのもの。値段もばらばらで、サイズの数字が並んでいる。その数字が自分のどこに当てはまるのか、すぐにはわからなかった。いまはいているブリーフのゴムを指で引っぱって、昼間にこっそり見た記憶を頼りに比べる。


 見ているだけで、喉が渇いた。


 でも、閉じられなかった。


 支払いも受け取りもコンビニでできる、と書いてあった。家に届かないなら、と思う。何度も画面を読み返して、それでも途中で怖くなって閉じる日が二日続いた。三日目の夜、ぼくはクッキー缶の中から必要なぶんだけ小銭を出して、画面の指示どおりに進んだ。最後のボタンを押したあと、椅子から立ち上がると、膝のあたりが少し変だった。


 数日後、学校帰りに寄ったコンビニで、小さな茶色の包みを受け取った。


 店員は何も言わなかった。バーコードを読み取って、袋を渡しただけだ。なのに、ぼくはレシートを受け取る指先まで落ち着かなかった。ランドセルに入れてしまえば、外からはただの紙のかたまりにしか見えない。けれど背中には、それが一冊の教科書よりずっとはっきり存在していた。


 部屋で包みを開けたとき、いちばん先に聞こえたのは、薄い袋のこすれる音だった。


 中に入っていたのは、淡い色のショーツが二枚だった。ひとつは白に近いピンク、もうひとつは薄い水色。どちらも大きな柄はなくて、足ぐりのところに小さなレースみたいな縁取りがある。派手じゃない。でも、あの新幹線のブリーフとは、見ただけで違う世界のものだった。


 ぼくはそれをベッドの上へ並べた。


 水色のワンピース。白い靴下。クリーム色のカーディガン。小さな鏡。淡い色のショーツ。


 どれも、高いものじゃない。店で目を引くような飾りも、特別な名前もない。クッキー缶の中身で少しずつ買えたものばかりだ。それでも、机の上に並べると、ただの買いものじゃなく見えた。学校の机の上に広げるノートや教科書より、こっちのほうがずっと息が通る気がした。


 その夜、家族が寝てから、ぼくは引き出しをそっと開けた。


 音を立てないようにワンピースを出し、靴下をそろえ、カーディガンをひざの上に置く。窓の外は暗い。廊下の先で冷蔵庫の音が低く鳴る。前なら、それだけで手を止めていたかもしれない。けれどいまは、静かな家の中で布を並べる手つきのほうが落ち着いていた。


 着替えて、鏡の前に立つ。


 水色の裾が膝の上で止まる。白い靴下がその下につながる。カーディガンを羽織ると、肩の線が少し変わる。胸元の見え方も、前よりやわらかい。裾を指でそろえ、袖口を引く。小さな鏡で顔の近くを見ると、短い髪のままなのに、前とは違うまとまり方をしている気がした。


 完璧ではなかった。


 まだ足りないものはある。けれど、足りないところを数えるより先に、胸の奥が静かになる。ワンピース一枚で立っていたときより、ずっと息がしやすかった。


 学校では、ぼくは相変わらず地味だった。


 忘れ物をしないようにして、先生にあてられたら立って答えて、休み時間は騒ぎの端にいる。朝倉ひよりが新しいハンカチを机に置いているのを見ても、白石真帆がシャーペンの先を指でそろえているのを見ても、ぼくはいつもどおりの顔をしているつもりだった。


 でも、本当は違った。


 黒板を見ながらも、頭のどこかで、あのカーディガンはワンピースの上ならボタンを留めないほうがいいかもしれない、と考えている。給食の時間に、向かいの席の子の靴下の長さを見る。帰ったらもう一度鏡の前に立とうと思う。その考えが、授業のあいだじゅう、かすかに胸の下であたたかかった。


 夜、鏡の前に立つ。


 水色の裾。白い靴下。クリーム色のカーディガン。前よりずっと、途中で止まらなくなったと思う。胸のところも、肩の線も、前に一人でワンピースだけ着たときより落ち着いて見えた。


 それでも、足もとを見ると止まる。


 靴がない。


 白い靴下の先から下は、家の床の上で終わっている。ここまで揃えても、その先がないだけで、急に部屋の中の姿に戻ってしまう気がした。


 ぼくは裾を指先でならした。


 また着たい、だけじゃなかった。このまま外へ出られたらどうなるんだろうと思う。昼の光の下で、風が裾に入ったら。知らない町の道を、この姿で歩けたら。


 鏡の前にいるあいだのほうが、呼吸は深かった。


 部屋の窓は閉まっている。外の風は入ってこない。それでも、その裾を見ていると、家の中だけじゃない場所の空気を思い浮かべてしまう。


 次に要るのは、靴だと思った。


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