第06話 五つ隣の町
イメージ曲 https://youtu.be/lBXCNkNqKzU
全18話 19時公開
路線図の上で、ぼくは指を五つ先まで滑らせた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。知っている駅名はそのへんまでで、その先は文字だけが急に遠くなる。よっつ目を過ぎ、五つ目で指を止める。そこまで行けば、同じクラスの誰かに会うことは、たぶんない。絶対じゃないけれど、自分を押し出すにはそれくらいの距離が要る気がした。
机の下には、靴の箱がある。
先週、駅前のリサイクルショップで見つけたものだ。つやのない黒。甲に細いベルトが一本あるだけの、飾りの少ない靴。かわいすぎないほうがいいと思って、それを選んだ。箱のふたを少し持ち上げると、左右の先がきちんと並んでいる。まだ部屋の中で何度か履いただけなのに、その形を見るだけで足もとから先の景色まで変わる気がした。
五つ隣の町へ行こう、と思ったのは、その靴を履いて鏡の前に立った夜だった。
白い靴下の先が、もう家の床では終わらない。それだけで、部屋の中の空気が少し外に近づいた。けれど同じ町を歩くのは無理だった。駅前の百円ショップも、リサイクルショップも、学校帰りに通る道も、もうぜんぶ知っている場所になってしまっている。知っている場所には、知っている人がいるかもしれない。その「かもしれない」が、歩く前から足首をつかんでくる。
だから、五つ隣。
知らない駅名のところまで行って、知らない町の人の中にまぎれる。そう決めてからも、すぐには出られなかった。路線図を開いては閉じる。靴箱のふたを少しだけ開ける。また閉じる。そういうことを何日か繰り返して、ようやく土曜日の朝、ぼくはベッドの上に服を並べた。
水色のワンピース。白い靴下。クリーム色のカーディガン。淡い水色のショーツ。小さな鏡。黒い靴。
それと、着て行って帰ってくるための、いつものTシャツと半ズボン。
外で着替えると決めたのは、家を出るところからこの姿では無理だとわかっていたからだ。玄関のドアを開けた瞬間から、近所の目がある。母の知り合いかもしれない人。前を通る自転車。向かいの家の窓。その全部をいきなり越える勇気は、まだなかった。
服をたたんで、大きめの手さげ袋に入れる。その上に図書館の本を二冊のせた。ほんとうに返す日ではないけれど、何も持たずに出るよりはましだった。鏡を入れ、財布を入れ、何度も忘れものがないか確かめる。最後に、靴箱から黒い靴を出して、袋の底へそっと寝かせた。
階下では、母が洗濯機を回していた。父は休みなのに、朝から町内会だか何だかで少し出るらしい。こういう日なら、午前中から昼すぎまで家にいなくても不自然じゃない。そう考えて決めたはずなのに、階段を下りる足だけは少し変だった。
「どこ行くの」
母が洗面所の前から顔を出す。ぼくは手さげ袋の持ち手を握り直した。
「図書館。あと、本屋も少し見る」
聞かれていないのに、後ろをつけ足していた。自分でもわかる。嘘をつくときは、こうなる。
「ふうん。お昼どうする?」
「その前には戻る。たぶん」
たぶん、まで言ってしまってから、余計だったと思う。母は少しだけ首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。
「気をつけてね。あんまり遠く行かないでよ」
「……うん」
その一言に、喉の奥が小さくひっかかった。遠くへ行くつもりだったからだ。それでも、そこで止まるわけにはいかなかった。父が玄関で靴を履きながら、「財布持ったか」とだけ言う。ぼくはうなずいて、先に外へ出た。
駅までの道は、いつもと同じだった。
土曜日の朝だから、平日より少し静かなくらいで、角のコンビニも、信号も、歩道の白い線も変わらない。変わらない景色の中で、自分の袋の中身だけが変だった。図書館の本の下に、ワンピースと靴がある。そのことを知っているのはぼくだけだと思うと、手のひらだけがじっとりした。
改札を抜けるまでは、まだ普通のかっこうのままだった。電車が来る。乗る。つり革の下に立つ。窓の外の町がひとつずつ後ろへ流れていく。ひとつ目の駅。ふたつ目の駅。三つ目。数えるたびに胸のあたりが少しずつ重くなるのに、引き返したいとは違った。むしろ、もう戻れないほうへ進んでいる感じが強くなる。
五つ目の駅で降りる。
ホームに降りた瞬間、知らない匂いがした。どこの駅でも同じような鉄の匂いと、コンビニの揚げものみたいな匂いと、それに少しだけ海風みたいなものが混じっている。もちろん海なんて近くないはずなのに、知らない町はそれだけで空気の味まで違う気がする。
ぼくは人の流れにまぎれて階段を上がり、改札のそばにあった「だれでもトイレ」の表示を見つけた。そこまで来て、一度だけ立ち止まる。ここでドアを開けてしまったら、次に出るときはもう違う。わかっているのに、開ける手のほうが先に動いた。
鍵をかける。
狭くはないのに、すぐ息が詰まりそうになる。白い壁。鏡。手すり。洗面台。蛍光灯の明るさがやけにまっすぐで、袋の中身まで全部見られているみたいだった。
手さげ袋を床に置く。しゃり、とビニールのこすれる音がする。その音だけで、外にまで聞こえた気がした。耳を澄ます。トイレの外を誰かが通る足音。アナウンスの遠い声。改札のピッという機械音。いつもなら気にもしないような音が、壁一枚ぶん近い。
ぼくはTシャツの裾を握ったまま、少し止まった。
ここまで来たのに、また動けなくなるのかと思う。店の前で立ち尽くした日みたいに。扉を開けて入ったのに、何もできず逃げた日みたいに。
でも、今日は服がある。靴もある。五つ隣まで来た。そこまでして何もしないで帰ったら、その帰り道をたぶんずっと覚えてしまう。
ぼくはTシャツを脱いだ。
布の擦れる音が、自分で思っていたより大きい。半ズボンを下ろし、いつもの下着も脱ぐ。足もとに積み重なった自分の服は、いままでのぼくの形そのもので、それをまたあとで着るのだと思うと少し変な感じがした。急いでショーツをはく。白い靴下を引き上げる。ワンピースを頭からかぶる。家で何度か着たはずなのに、外だとまた袖の位置を探す手つきがぎこちない。背中へ落ちる布。肩にかかる重み。胸のところで一度、息が止まる。
クリーム色のカーディガンを羽織る。袖口を引く。裾をならす。
最後に、黒い靴。
片足ずつ入れて、甲の細いベルトを留める。足の甲がきゅっと細く包まれる感じがした。立ち上がると、目線の高さは変わらないのに、身体の下半分だけ別の人みたいだった。
鏡を見る。
水色の裾。白い靴下。黒い靴。そこへクリーム色が重なっている。家の鏡の前で見たのと同じはずなのに、いまは背景が駅のトイレだというだけで、急に本当になってしまった。ここから先は、家の中じゃない。
ぼくは一度しゃがんで、脱いだ服を小さくたたんだ。Tシャツ、半ズボン、下着。そこに自分の財布と本も一緒に押し込んで、袋の口をきつく結ぶ。もう一度、鏡。髪。襟元。カーディガンの肩。裾。大丈夫かどうかはわからない。でも、これ以上ここにいると出られなくなる。
鍵を開けた。
ドアの外の空気が、さっきと少し違う。たぶん違うのはこっちなのに、駅のコンコースまで別の明るさに見える。ぼくは目を上げきれないまま、でも下ばかりも見ないようにして歩いた。靴の底は、思っていたより音がしなかった。それだけで少し助かる。
改札が近づく。
ここを抜けたら、ほんとうに外だ。
胸がどくんと鳴った。駅員のいる窓口の前を通る。自動改札へ切符を入れる。通る。取り忘れそうになって、あわてて手を伸ばす。その一瞬、隣の人と肩が触れそうになって息が詰まる。けれど相手はそれだけだった。振り返りもしない。
改札の外へ出る。
何も起きなかった。
駅前にはバスが止まっていて、ロータリーの向こうで人が信号待ちをしている。スーツの男の人。買いもの帰りらしい女の人。子どもの手を引いた母親。高校生の二人組。みんなそれぞれの行き先を見ていて、ぼくのことを見ているようで、見ていなかった。
見られている気がしたのは、駅を出てすぐの数歩だけだった。足もとから上に向かって、町じゅうの視線がのぼってくるような感じがして、肩が固くなる。裾を押さえたくなる。カーディガンの前を閉じたくなる。けれど実際には、誰も立ち止まらない。誰もひそひそしない。コンビニの前で飲みものを飲んでいた高校生も、ぼくの横を普通に通り過ぎた。
信号が青になる。渡る。
白線の上を、黒い靴で歩く。
それだけのことが、信じられないくらい大きかった。家の廊下じゃない。鏡の前でもない。五つ隣の町の、昼の光の下だった。日向へ出ると、ワンピースの水色が少しだけ明るくなる。白い靴下の編み目も、家の中よりはっきり見える。風が一度、足もとから入って裾を持ち上げる。ぼくは思わず足を止めた。
外でも、ちゃんと服のままだと思った。
家の中だけで成立していたわけじゃない。光が当たっても、風が入っても、水色の裾は水色の裾だった。白い靴下も、黒い靴も、この姿のつづきのままそこにある。
雑貨屋の前で立ち止まる。ガラスに小さく自分が映った。ほんの一瞬だけだったけれど、そこにいたのは、家を出る前のぼくではなかった。もちろん、誰が見ても女の子に見えるわけじゃないと思う。髪は短いし、顔だって変わっていない。それでも、この姿はもう、部屋の中だけの想像じゃなかった。
ぼくは小さく息を吐いた。
誰も特別に見ていない。
それは、思っていたよりずっと助かった。胸のうるささだけが、自分の中に取り残されたみたいでもあった。
小さな公園の前を通る。ベンチに座ったおじいさんが新聞を広げていて、その横を歩いても、何も起きない。見られた気配もない。
風がまた吹いた。
今度は、裾がさっきより少しやわらかく揺れた。白い靴下の上で、布の端が軽く持ち上がって戻る。その動きを外の光の下で見た瞬間、胸の奥の緊張がほんの少しだけほどけた。
ぼくは手さげ袋の持ち手を握り直した。中には、さっきまで着ていたTシャツと半ズボンが入っている。帰るときはまたあれに戻る。それでも、いまはまだ戻らなくていい。
誰も見ていない。
でも、ぼくはここにいる。
その二つが、ようやく同じ場所に並んだ気がした。
信号の向こうへ、もう少しだけ歩いてみようと思った。




