第04話 だれもいない家
イメージ曲 https://youtu.be/lBXCNkNqKzU
全18話 19時公開
ワンピースを机の奥にしまってから、ぼくは引き出しを開けるたびに少しだけ息を止めた。
宿題のノートをしまうとき。教科書を出すとき。消しゴムを落として、いちばん下の段まで開けたとき。その奥に、水色の布がある。見えないのに、そこだけ空気が違うみたいにわかる。
今すぐ着る気はない、と思っていたはずだった。
でも本当は、引き出しを閉めるたびに考えていた。いつなら着られるだろう。いつなら誰にも見つからないだろう。昼間は母がいることが多い。父が早く帰る日もある。夜は論外だった。廊下のきしむ音ひとつで心臓が跳ねるのに、そんな時間に着られるはずがない。
だから、ただ待っていた。
待っているあいだにも、ぼくは何度も引き出しを開けた。そっと取り出して、膝の上に置くだけの日もあった。指先で胸元の小さなリボンをなぞって、また畳み直すだけの日もあった。布は思っていたより少ししゃりっとしていて、安い子ども服の軽さがある。それでも、手の中にあると、店で見ていたときよりずっとほんとうだった。
土曜日の昼すぎ、母がエプロンを外しながら言った。
「ちょっと買いもの行ってくるね。お父さんも駅のほうまで出るって」
台所では、父が鍵を鳴らす音がした。ぼくはテレビの前に座ったまま、できるだけ普通の顔をしてうなずく。
「湊、お留守番できる?」
「……うん」
母はそれ以上気にした様子もなく、冷蔵庫の横にメモを貼った。帰りが少し遅くなるとか、牛乳があったら入れておいてとか、そういうことだろう。父は玄関で靴を履きながら、一度だけこっちを見た。
「戸締まりな」
「うん」
それだけのやりとりなのに、喉の奥が乾く。ぼくはテレビの音を聞いているふりをしながら、玄関のほうの気配だけを追っていた。
ドアが開く音。母の声。父の低い返事。鍵の鳴る音。閉まる音。
それから、外へ遠ざかっていく足音。
完全に聞こえなくなるまで待って、ぼくはやっと息を吐いた。自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていたらしい。ソファから立ち上がると、膝まで少し変な感じがした。
家が静かだった。
いつもの家のはずなのに、誰もいないだけで、廊下も階段もよそよそしい。冷蔵庫の低い音がやけに大きく聞こえる。窓の外では車が通っているのに、家の中だけ時間が止まったみたいだった。
ぼくはまず玄関へ行った。鍵がかかっているのを確かめる。ついでにドアノブを一度引いて、本当に閉まっているか確認する。誰に見られるわけでもないのに、そんなことをしてからでないと二階へ上がれなかった。
自分の部屋に入る。カーテンを引く。少しだけ隙間があるのが気になって、左も右も引っぱって合わせる。窓の鍵も見た。開いているはずがないのに、そこまでしないと落ち着かない。
机の前に座る。
引き出しを開ける手が、少し汗ばんでいた。教科書をどける。ノートを持ち上げる。いちばん奥に押し込んでいた水色のかたまりが見えた瞬間、胸のあたりが急に狭くなる。
ぼくはそっと取り出した。
畳んだときの折り目がまだ残っている。胸のところに一本、斜めの線が入っていて、そこだけ店の匂いが残っているような気がした。そんなはずないのに、買った日のレジの音まで少し思い出す。
しばらく、そのまま両手で持っていた。
ただの服だ。ただの子ども用のワンピース。高いわけでもないし、飾りも少ない。胸元の小さな白いリボンだって、近くで見れば少し安っぽい。それでも、ぼくにはそれが、いままで触ったどの服よりもむずかしかった。
ベッドの上に置く。
シャツのボタンに指をかける。ひとつ、ふたつ外して、途中で止まる。廊下の音に耳を澄ます。何も聞こえない。自分の呼吸だけが少し浅い。ぼくはもう一度窓のほうを見て、それから着ていた服を脱いだ。
肌に空気が当たる。四月の終わりにはまだ少し早い冷たさで、腕に細かい鳥肌が立つ。
ワンピースを持ち上げる。
頭からかぶるのか、足から入るのか、一瞬わからなくなった。店でマネキンがどう着ていたかなんて、そんなところまで覚えていない。結局、頭から通した。布が一度、顔をふさいで、その暗さの中で息が詰まりそうになる。腕を探して袖へ通す。肩のところで少し引っかかって、あわてて力を抜く。背中に布が落ちる。
そのとき、肩に重みが乗った。
薄い服のはずなのに、両肩にかかる感触だけは思っていたよりはっきりしていた。Tシャツともシャツとも違う。布が上からかかっている、と思う。ほんの少しの重みなのに、それだけで、いま自分が着ているのが男の子の服ではないとわかった。
心臓がうるさかった。
着られた。
ぼくはそのまま立ち尽くした。手のひらで自分の肩を触る。水色の布がそこにある。シャツでもTシャツでもない、見たことはあったのに、自分の身体にはなかった形が、ちゃんと自分の上に乗っている。
ゆっくり鏡の前まで行く。
姿見の中に、ワンピースを着たぼくがいた。
最初に目に入ったのは、顔じゃなかった。肩から胸にかけての線。腰の少し上で切り替わって、その下に落ちるスカート。膝より少し上で止まる裾。立っているだけなのに、いつもの半ズボンより布の終わりがずっと近い。
ぼくはそっと息を吸った。
裾が、わずかに動く。
ただ一歩、足をずらしただけで、布が遅れて揺れた。ふわっと広がる、というほど大げさじゃない。安い生地だからか、軽いのに少しぎこちない。それでも、動いたあとに裾だけが遅れてついてくる感じが、見たことのないものみたいに思えた。
手を伸ばして、胸元のリボンを直す。意味もなく、裾を下へ引く。指先で布の端をそろえる。そういうことをしているうちに、立ち方まで少し変わっていく。足を開きすぎるのが変に思えて、自然に膝のあいだが狭くなる。腕の置き方も、なんとなく気になる。鏡の中の自分がそれで急に別人になるわけじゃないのに、少しでも合うようにしたくなる。
もう一歩、前に出る。
太ももに空気が当たった。
半ズボンのときには、いつも先に布があった場所だ。そこに何もなくて、歩くだけで風がじかに触れる。くすぐったいような、落ち着かないような感触で、思わず足を止める。止めても、そこにまだ空気がある。それが不思議だった。
鏡の中のぼくは、思っていたより普通だった。
もっとひどく似合わないのかと思っていた。笑ってしまうくらい変なのかと思っていた。もちろん、女の子に見えるわけじゃない。髪も短いし、顔だっていつものままだ。それでも、ワンピースそのものは、ぼくの身体の上でちゃんと服の形になっていた。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
ぼくは少しだけ笑いそうになって、でも鏡の中の顔がぎこちなくて、すぐやめた。代わりに、裾の端をつまむ。軽く持ち上げてみて、すぐ離す。そんなことを何度かしてから、どうしてか、その場でくるっと回ってみたくなった。
ほんとうに小さく、半分だけ回るつもりだった。
けれど足が思ったより動いて、裾がふわりと持ち上がった。
次の瞬間、鏡の中に見えたものに、ぼくはぴたりと止まった。
ワンピースの下には、いつものブリーフがある。
白地に青い新幹線の絵。前の町にいたころから何度も洗っているやつで、ゴムのところが少しよれている。さっきまで息をのむみたいに見ていた水色の裾の下に、それが当たり前みたいに見えていた。
ぼくは何も言えなくなった。
せっかくここまで来たのに、急に途中で切れてしまったみたいだった。
もう一度、今度はわざと裾を少しだけ持ち上げる。見間違いじゃない。新幹線の絵はそこにある。男の子の下着だ。
服だけじゃ足りない、と思った。
ワンピースを着られたら終わりだと思っていたのに、ぜんぜん終わらなかった。裾の下まで、この服のつづきみたいにしたい。靴下も、下着も、もう少しちゃんと揃えたくなる。
ぼくはベッドの端に座った。
スカートがふわっと広がって、それだけでまた胸が鳴る。座るとき、自然に膝が閉じる。そんなことまで変わるのが、おかしくて、少しうれしい。うれしいのに、鏡の中の新幹線の絵がまだ頭から離れない。
廊下の向こうで物音がした気がして、ぼくはびくっと顔を上げた。もちろん、誰もいない。家鳴りか、外の車の振動だろう。それでも急に現実へ引き戻されて、あわてて立ち上がる。
脱ぐのが惜しかった。
さっき着たときより、脱ぐほうがゆっくりになった。頭から抜くとき、布が髪にひっかかる。腕を抜く。ワンピースはすぐにただの形へ戻って、ぼくの手の中で軽くたたまれた。さっきまで自分の身体に乗っていたのに、床に置くとまた子ども服の大きさに見える。
でも、もう買ったばかりのときとは違った。
これは引き出しの奥にある秘密だ。ただの布じゃない。着てしまったから、なおさら戻れない。
ぼくは下着姿のまま、机の前に座った。いちばん上の引き出しから小さな缶を出す。貯金箱がわりの、丸いクッキー缶だ。ふたを開けて、中の小銭を机にあける。百円玉、五十円玉、十円玉。前より少ない。ワンピースを買ったんだから当たり前だった。
それでも、足りないと思った。
下着もほしい。靴下も、できればもう少しちゃんとしたものがほしい。鏡の前で途中で止まらないくらいには、揃えたかった。
机の上の小銭を、指先でひとつずつ寄せる。これだけじゃ足りない。お小遣いを使わないようにして、母の手伝いも今までよりちゃんとやろうと思う。皿洗いでも、洗濯物をたたむのでも、できることはある。
ぼくは小銭を缶へ戻した。
ワンピースをもう一度きちんと畳む。今度は前より少しうまくできた気がした。リボンが折れないように気をつけて、教科書の奥へそっとしまう。引き出しを閉めても、胸の奥の熱は消えない。
また着たい、と思う。
それだけじゃなかった。
次は、もう少しちゃんと着たい。
そのためにできることを、ひとつずつやろうと思った。




