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ぼくの裾が揺れる春  作者: うつチャリンカー


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第03話 はじめての買い物

イメージ曲 https://youtu.be/lBXCNkNqKzU

全18話 19時公開

 月曜日の朝、ぼくはランドセルの横に路線図を広げていた。


 朝ごはんの前に見るようなものじゃないと自分でも思う。けれど、昨日の夜から気になっていた。前に立ち尽くした店のある通り。そこからもう一駅先。さらに商店街を抜けた先。地図の上では少し遠いだけなのに、知らない場所の名前になると、それだけで町の空気まで変わる気がした。


 母が台所から顔を出した。


「なに見てるの」


「……駅」


「ふうん。まだ慣れないもんね」


 それだけ言って、また鍋のほうへ戻っていく。ぼくはあわてて路線図を畳み、教科書の下へ押し込んだ。やましいことなんてまだ何もしていないのに、紙一枚隠す手つきだけが先にこそこそしている。


 学校へ向かう道では、ランドセルの中で筆箱が小さく鳴った。ぼくは前を向いたまま、頭の中で昨日の地図をなぞる。前の店には行かない。あそこでは無理だった。扉のベルの音も、取っ手の冷たさも、まだ手に残っている。だから次は、顔を覚えられていない店がいい。そう考えている自分が、少しだけずるい気もした。


 授業中、黒板の字を写しながらも、ノートの端では別の線をたどっていた。駅からまっすぐ。商店街を抜ける。大きい通りに出る。そのへんに子ども服の店があるかもしれない。ないかもしれない。見つからなくても、前の店には行かない。それだけは決まっていた。


 休み時間、宮下蓮が机の横から顔を出した。


「相沢、今日もなんか考えごとしてる」


「……してない」


「してるやつの顔なんだよなあ、それ」


 そう言って笑う。ぼくは連絡帳を閉じるふりをして目を落とした。蓮はそれ以上深く聞かず、隣の席の子に消しゴムを借りて、また別の話を始める。その雑さに助かる日もある。今日は少しだけ、助からなかった。


 放課後になって、教室の空気がほどける。ランドセルを背負うと、背中の四角い重みがいつもよりはっきりした。帰るだけなら、そのまま家へ向かえばいい。けれど足は駅のほうへ向いてしまう。改札の手前で一度立ち止まり、ポケットの中の小銭を指で数えた。昨日の夜、貯金箱をひっくり返してまとめた分だ。往復の切符代を引くと、服に使えるのは千五百円がぎりぎりだった。百円玉が三枚、五十円玉が二枚、十円玉が何枚もある。お年玉の残りからこっそり移した千円札が一枚だけ、折りたたんで入っている。


 ただの買いものだ。


 そう思いながら切符売り場の前に立つ。けれど胸のあたりでは、それで済まない音がしている。指先でボタンを押し、切符を取る。その紙の薄さまで、妙に意識してしまう。


 電車の中は、学校帰りの人で少し混んでいた。ぼくはつり革の下で揺れながら、窓の外を見た。ひとつ目の駅を過ぎ、ふたつ目の駅を過ぎる。知らない名前が増えるたび、少しだけ息が深くなる。ここまで来れば、前の町の人も、新しい学校の人も、たぶんいない。そう言い聞かせると、本当にそうなるわけでもないのに、足の裏のこわばりだけは少しほどけた。


 降りた駅は、前の駅より小さかった。改札の外にパン屋があって、焼きたての甘い匂いがしている。商店街の看板は少し色あせていて、靴屋と文房具屋のあいだに小さな服屋が二軒並んでいた。ぼくは最初の店の前を通り過ぎる。婦人服らしかった。次の店は、入口のところに小さなマネキンが立っていて、膝くらいの高さのワンピースを着ている。ガラスには、手書きで「セール」と貼ってあった。


 足が止まる。


 前の店みたいに明るくはない。照明が少し白くて、並んだ服の色も落ち着いて見える。これなら、と思った。何がこれならなのか、自分でもわからない。ただ、前の店より少しだけ入りやすそうに見えた。


 深く息を吸って、また吐く。


 扉の近くまで行くと、ガラスに自分の顔が映った。水色のシャツ、黒い半ズボン、四角いランドセル。そこだけ見れば、買いもののついでに立ち寄った小学生には見えない。見えないはずなのに、足はもう前ほど止まらなかった。


 扉を押す。


 ベルは鳴らなかった。代わりに、どこかでラジオみたいな音が小さく流れている。店の中はひんやりしていて、外の風の匂いが急に切れた。正面に小さいサイズのワンピース、左にカーディガン、奥の回転棚に靴下。壁ぎわには値札の赤い札がいくつか見えた。


 いらっしゃいませ、という声は、すぐには飛んでこなかった。


 レジの奥で年配の女の人が、紙袋を折っている。顔を上げたが、それだけだった。怪しまれた感じも、笑われた感じもない。ただ、客が入ってきたのを見ただけの顔。ぼくはそれに少しだけ救われて、店の中へ二歩進んだ。


 近い。


 前の店でも思ったけれど、服は手が届くところにあると急に現実になる。胸元の小さい飾り。袖口の細いレース。スカートの切り替えの位置。ハンガーにかかったままだと、どれも軽そうなのに、目で追うだけで指先がざわざわする。


 いちばん手前のラックに、薄い水色のワンピースがあった。前に見たものより、ずっと簡単なつくりだ。飾りは少なく、胸元に小さな白いリボンが一本だけ。生地も厚くない。スカートの広がりも控えめだった。そのぶん、値札が先に目に入る。千四百九十円。手の届く値段だと思った瞬間、胸の奥がどくんと鳴った。


 買える。


 かわいい、より先に、その言葉が浮かぶ。買える。自分の持っているお金で。だれかに頼まなくても。だれにも決められなくても。


 ぼくは周りを見た。店の奥では、レジの女の人がまだ紙袋を折っている。外を通る自転車の影がガラスを横切っただけで、店の中の空気は変わらない。


 手を伸ばす。


 指先が裾に触れた。思っていたより少しだけしゃりっとした布だった。もっとやわらかいのかと思っていたけれど、安いからかもしれない。それでも、手の中に入るだけで、布はちゃんと布の重みを持っていた。ハンガーごと少し持ち上げてみる。肩のところの縫い目、ウエストの切り替え、まっすぐ落ちるスカート。派手じゃない。けれど、着られそうだと思った。


 その考えに、自分で少し驚く。


 着たい、ではなく、着られそう。


 ぼくはハンガーを戻し、それからまた取り直した。他の服も見るべきなのかもしれない。もっとかわいいものがあるのかもしれない。けれど、長く迷えば迷うほど、だれかに見られる時間も増える気がした。ここで選ばないと、また何もできないまま帰ることになる。


 水色のワンピースを腕にかける。


 ハンガーの先がシャツの袖口に当たった。その小さなひっかかりまで、やけにはっきりしていた。


 レジまでの数歩が長かった。ランドセルが背中で邪魔に感じる。まるで、いまの自分をわざわざ見せるためについているみたいだ。レジの前に立つと、女の人が初めてちゃんと顔を上げた。


「これ、お願いします」


 言えた、と思ったのは、声が思っていたより普通に出たからだ。けれどそのあと、女の人が「はい」と言ってワンピースを受け取った瞬間、心臓がまた速くなる。値札を外す音。レジのボタンを押す音。袋を広げる音。そのひとつひとつが、自分がここで何をしているかを周りに知らせているみたいだった。


「千四百九十円です」


 ぼくはポケットの中の小銭を出そうとして、指が引っかかった。うまくつかめない。十円玉を一枚落とし、レジ台の端で小さく跳ねる。あわてて拾う。耳まで熱くなる。


「……すみません」


「ゆっくりでいいよ」


 女の人はそう言った。やさしい声でも、慰める声でもない。ほんとうに、急かしていないだけの声だった。


 その普通さが、前の店のときとは違う形で胸に刺さる。だれも笑わない。だれも理由を聞かない。ただ、ぼくが出したお金を数えて、服を袋に入れてくれる。


 ぼくは千円札を出し、足りない分を小銭で払った。指先が震えているのが自分でもわかる。レジの女の人は淡々と数え、袋にワンピースを畳んで入れた。水色の布が一度見えなくなり、白い持ち手のついた薄いビニールだけが残る。


「ありがとうございました」


 その言葉を聞いたとき、やっと終わったと思った。


 袋を受け取る。軽い。信じられないくらい軽いのに、腕の内側だけが熱かった。ぼくは頭を下げるみたいにして店を出た。外の空気が頬に当たる。さっきより少しだけ風がある。商店街の人の流れは変わらない。パン屋の匂いもそのままだ。どこも変わっていないのに、ぼくの手の中にだけ、いままでなかったものがある。


 買ってしまった。


 その言葉が、歩き出してからじわじわ実感になる。


 改札へ向かう道すがら、何度も袋の持ち手を握り直した。薄いビニールが指に食い込む。中身は見えないはずなのに、だれかに透けて見られている気がする。向こうから来たおばさんが少し視線を落としただけで、胸が跳ねる。駅前の鏡みたいなガラスに映った自分は、いつもと同じ小学生だった。ただ、右手に白い袋を下げている。そのことだけで、世界がひとつずれたみたいに見える。


 電車に乗る前、ホームの端のベンチに座った。袋を膝の上に置く。持ち手のところを開けば、中の色が少し見えそうだった。見たいと思う。ここで見たら、きっともっと落ち着かなくなるともわかっている。


 結局、指先で持ち手をなぞるだけにした。


 電車が来る。ドアが開く。人が乗り降りする。いつもならただの音なのに、今日は全部が少し遠く聞こえる。窓の外を流れていく看板も、踏切も、夕方の空も、さっきまでとは別の色で見えた。世界が変わったわけじゃない。変わったのは、自分の手の中にひとつ増えただけだ。それでも、そのひとつのせいで、景色の端がどこも少し明るく見える。


 家の最寄り駅に着くころには、また胸の動きが変わっていた。


 ここから先は隠さなければならない。


 改札を出たところで、ぼくは袋をランドセルの前に隠すみたいに抱えた。家までの道がいつもより長い。信号待ちの時間も長い。家の前まで来ると、玄関の明かりはまだついていなかった。母は買いものかもしれない。父はもちろんまだ帰っていない。そのことに、ほっとする自分がいる。


 鍵を回して中へ入る。静かだった。


 靴を脱いで、できるだけ音を立てずに二階へ上がる。自分の部屋の扉を閉めたところで、初めて大きく息を吐いた。ランドセルを床に下ろし、袋だけを机の上へ置く。


 白いビニールの中に、水色が見える。


 ぼくはしばらく、そのまま見ていた。買った。ほんとうに買った。店で服を手に取ったことも、レジでお金を払ったことも、全部もう戻らない。昨日までガラスの向こうにあったものが、いまは机の上にある。


 袋をそっと開く。


 中からワンピースを取り出すと、店の中で見たより少しだけしわがついていた。畳まれていた折り目が、胸のところに一本ついている。ぼくは指でそこをなぞった。布はやっぱり少ししゃりっとしていて、思っていたより頼りない。けれど、その頼りなさごと、自分で選んだものだった。


 机の引き出しを開ける。文房具、ノート、前の町から持ってきた小さな工作。ここにそのままは入らない。押し込めば入るかもしれないが、出し入れのたびにしわになる。押し入れは危ない。母が掃除するときに開ける。棚の上もだめだ。


 ぼくは机のいちばん下の段を引き出し、教科書を何冊かどけた。その奥に少し隙間がある。ここなら、ふだんは見えない。ワンピースをもう一度畳み直す。店の人みたいにはできない。裾が少しずれる。もう一回やり直す。リボンが折れないように気をつけて、やっと手の中で小さくまとまった。


 そのかたまりを、教科書の奥へそっと入れる。


 見えなくなる。


 見えなくなったのに、そこにあるのがわかる。


 階段の下で、玄関が開く音がした。母の「ただいま」が聞こえる。ぼくはあわてて引き出しを閉め、机の前に座った。心臓がまた速くなる。けれど、さっきまでの速さとは少し違う。机の向こう側に、自分だけが知っているものがある。そのことが、息苦しさといっしょに、変な熱を胸に残していた。


「湊ー、いる?」


「……いる」


「手ぇ洗ってきなさいよー」


「うん」


 返事をしてから、もう一度だけ引き出しに目をやる。木の板の向こうに、水色の布がある。ただの布のはずなのに、もうそうは見えなかった。


 ぼくは立ち上がり、部屋の扉に手をかけた。


 今すぐ着る気はない。でも、いつか着る。


 その考えだけが、喉の奥で小さく鳴っていた。


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