第02話 ショーウィンドウの向こう
イメージ曲 https://youtu.be/lBXCNkNqKzU
全18話 19時公開
帰り道の角を曲がったとき、ぼくはまた足を止めた。
昨日、ショーウィンドウの前で立ち尽くした店だ。夕方の光を受けたガラスの向こうに、春物らしい服が並んでいる。薄い黄色のカーディガン。小さな花柄のスカート。胸のところに細いリボンのついたワンピース。どれも特別きらびやかなわけじゃないのに、そこだけ空気の軽さが違って見えた。
ランドセルの肩紐が、急に重くなる。
店の前を通る人は、だれも立ち止まらない。女の人がひとり、ハンカチを探すみたいにちらりと中を見て、そのまま入っていく。小さな女の子の手を引いた母親も、迷わず扉を押す。みんな、ただ買いものをするだけの顔をしている。
ぼくだけが、その前で立ち止まる理由を抱えていた。
ガラスに近づくと、自分の姿がうっすら映る。水色のシャツ、黒い半ズボン、四角いランドセル。ショーウィンドウの服の横に重なると、いかにも場違いで、そこだけ切り抜いて別の場所から貼りつけたみたいだった。
けれど、目は離れない。
水色のワンピースの裾は、近くで見ると思っていたより広がりすぎていなかった。切り替えの位置も高すぎない。あれなら、歩いたときにどう揺れるんだろう、と考える。膝の上で止まるのか、もう少し下へ落ちるのか。ハンガーから外したら、布はどれくらいの重さなんだろう。
考えた瞬間、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
ぼくは一歩だけ近づいて、それからすぐ半歩下がった。誰かに見られたわけでもないのに、耳のあたりが熱い。店の中ではレジの横に立っていた店員が、紙袋をたたみながら何か言っている。ここからじゃ聞こえない。ただ、その口が動くだけで、自分に向けられた言葉みたいに思えてしまう。
入ればいいだけだ。
頭の中ではそう思う。扉を押して、並んでいる服を見る。値札を見る。気になるのがあれば手に取る。ただそれだけだ。だれもそれを止めたりはしないはずなのに、足だけが動かない。
ガラスの向こうの服を見ていると、古い声が勝手によみがえる。
――男の子が女の子の服を着るのはおかしい事よ。
声の調子まで、きれいには覚えていない。怒っていたわけじゃない。たぶん、少し笑っていた。困ったみたいでもあった。だから余計に、あのときの言葉はまっすぐ刺さらず、変な形で身体の中に残った。
駄目、と強く言われたわけじゃないのに、その先を言えなくなったことだけを覚えている。
店の前を、自転車が一台通り過ぎた。風が起きて、ショーウィンドウの裾のほうに小さな光が走る。ぼくは反射みたいに顔を上げ、それから何もできないまま、その場を離れた。
家に着くまで、ランドセルの中身がやけにがたついた。
夕飯のあいだ、母は味噌汁の具が少し多かっただの、前の町より近くのスーパーが安いだの、そういう話ばかりした。父はうなずくか、短く返事をするだけだった。ぼくは箸を動かしながら、母の言葉の切れ目ごとに、店の扉の形を思い出していた。
「学校、どうだった」
唐突に聞かれて、思わず味噌汁の椀を持つ手に力が入る。
「……ふつう」
「友達できそう?」
「まだ」
「そっか」
母はそれ以上聞かなかった。ただ、空になったご飯茶碗を見て、「ちゃんと食べなさい」と言ってよそいに立つ。その背中を見ながら、胸の奥で変な息苦しさが膨らむ。母が何かに気づいているわけじゃない。なのに、自分だけが勝手に隠し事を抱えているようで、口の中のご飯まで落ち着かなくなる。
夜、布団に入って目を閉じても、昼間見た服の色だけが浮かんだ。薄い黄色。水色。花柄の、小さなひだ。目を開けると天井のしみしか見えないのに、閉じたほうがよく見える。
次の日も、その次の日も、ぼくは店の前を通った。
まっすぐ帰ればいいのに、信号をひとつ遠回りして、あの通りへ出る。最初は偶然みたいな顔をして歩いていたのが、二日目にはもう自分でもわかるくらい、そこへ行くための足になっていた。
火曜日は、店の前に自転車が二台止まっていた。女の子が店の中で帽子をかぶせてもらって、鏡の前でくるっと回っているのが見えた。帽子の縁を押さえる手つきまで、ぼくはガラス越しに見てしまう。水曜日は、制服の高校生の女の子たちが笑いながら通り過ぎていって、そのあとに残った甘いシャンプーみたいな匂いだけが風に混じった。木曜日は、店先に「春もの入荷」と書かれた札が出ていて、その横に白いソックスが三足ぶん吊られていた。フリルの幅がそれぞれ少しずつ違う。
毎日、少しずつ見えるものが増える。増えるたび、入れない自分だけが置いていかれる。
店の前まで来て、立ち止まる。ガラスに映る自分を見る。扉の取っ手に目が行く。そこから先が、毎回同じだった。
心臓が、ひとつ大きく鳴る。
たぶん、だれも見ていない。だれも、ランドセルを背負った男の子が子ども服屋の前で止まっていることなんて気にしない。そう思おうとするたび、逆に町じゅうの目がこちらを向いているような気がしてくる。コンビニの前の人も、横断歩道の向こうの人も、ぜんぶ。
おかしいと思われるかもしれない。
その考えは、頭の中で言葉になる前に、先に身体を固くする。母に言われた一言は、ずっと昔のものなのに、いま目の前の扉の形を借りて戻ってくる。
金曜日、空が曇っていた。
授業中から窓の向こうが白っぽくて、帰りの会が終わるころには、道が少し暗くなっていた。みんなが急いで帰るせいか、通りもいつもより足が速い。ぼくは昇降口で上履きを脱ぎながら、今日はやめようかと思った。雨が来そうな日まで、わざわざ遠回りすることもない。
それでも気づけば、またあの通りへ向かっていた。
店の前に着いたとき、まだ雨は降っていなかった。空気だけが湿っていて、ガラスの向こうの明かりがいつもよりやわらかく見える。店の中には客がいなかった。レジのそばで店員が棚を整えている。ハンガーをずらす、かすかな音がした。
いまなら。
そう思った瞬間、自分でもびっくりするくらい早く足が動いた。
扉の前まで行く。透明なガラスに、自分の顔が近く映る。少し口が開いていた。あわてて閉じる。ランドセルの肩紐を握った手が汗で滑る。
取っ手に手を伸ばす。
指先が金具に触れたとき、その冷たさだけがやけにはっきりしていた。
押す。
扉の上のベルが、小さく鳴った。
その音が、思っていたよりずっと軽くて、ぼくは一瞬だけ拍子抜けした。店の中の空気は外より少しだけあたたかい。新しい布の匂いと、どこか甘い洗剤みたいな匂いが混ざっている。右にワンピース、左にカーディガン、その奥に靴下や小物。ガラス越しに見ていたはずなのに、中へ入ると高さも近さもぜんぜん違った。
近い。
服が、こんなに近くにある。
手を伸ばせば届く場所に、フリルも、リボンも、やわらかそうな布もある。そのことだけで、喉の奥がきゅっと縮む。
「いらっしゃいませ」
店の奥から声が飛んだ。
ぼくは顔を上げる。店員はただそう言っただけだった。笑ってもいないし、怪しんでもいない。客に向ける、ふつうの声だ。
なのに、そのふつうさが、いちばん逃げ場をなくした。
ぼくのことを見ている。
そう思った瞬間、胸の中で何かがひっくり返った。足もとが急に落ち着かなくなる。いまここで服を見たら、手に取ったら、値札を見たら、その全部に理由ができてしまう気がした。だれも聞いていないのに、自分だけが説明を求められているみたいだった。
「……あ」
何か言おうとして、声にならない。
ぼくはいちばん近くにあったラックの端に触れた。ハンガーがかすかに鳴る。その軽い音にさえ、びくっと肩が跳ねた。
無理だ、と思った。
次の瞬間には、もう扉のほうへ向き直っていた。ベルがまた鳴る。店員が何か言った気がしたけれど、聞き取れないまま外へ出る。空気がいきなり冷たくなる。二歩、三歩、ほとんど駆けるみたいに離れて、角を曲がったところでようやく足が止まった。
細い路地だった。ゴミ置き場のネットが畳んで寄せてあり、ブロック塀の下に去年の枯れ葉が湿って貼りついている。そこで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
大きく吸う。うまく入らない。もう一度吸う。
心臓が、さっきからずっと速い。
ぼくは壁に背中をつけたまま、シャツの袖をつかんだ。悔しいのか、恥ずかしいのか、自分でもよくわからない。ただ、店の中で服があんなに近くにあったことだけは、まだ手の先に残っている。
あと少しだった。
いや、ぜんぜん足りていなかったのかもしれない。
入ることはできた。けれど、中にいたのは、服を見に来たぼくじゃなくて、見つからないうちに逃げたがっているぼくだった。あの一歩だけで何か変わると思っていたわけじゃない。それでも、扉を押した瞬間にもっと違う自分になれるかもしれないと、どこかで思っていた。
路地の向こうで、自転車のブレーキが鳴った。空の匂いが変わる。ぽつ、と一粒だけ頬に冷たいものが当たった。
雨だ。
ぼくはランドセルを背負い直した。さっきまで重かったはずなのに、いまは中身がからっぽみたいに頼りない。
あそこで終わりにしたくない、と思った。
店から逃げたのに、その気持ちだけは前よりはっきりしている。恥ずかしかった。こわかった。店員の「いらっしゃいませ」ひとつで逃げた自分が情けない。それでも、扉の向こうに服があったこと、手を伸ばせば届く距離だったこと、それを知ってしまった。
知らないままではいられない。
路地を出るころには、雨粒が少し増えていた。ぼくは走るほどでもない速さで、家のほうへ歩き出す。濡れたアスファルトの匂いが上がってくる。信号の向こうの店の明かりは、もう見えない。
それでも、目を閉じればまだ見える。
薄い水色の布。揺れた裾。手を伸ばせば届く高さ。
ぼくは袖をつかんでいた手をほどき、今度はランドセルの肩紐を握った。
次は、逃げないでいたいと思った。




