97話 俺×綻び=見ていられません。
夜もずっと、胸の奥に張りついているものが消えなかった。
脅迫状。
『まだ終わっていない
楽々浦真守は許さない』
あの無機質な文字が、目を閉じても浮かんでくる。もう一度始まるのかもしれない、という予感だけが、朝になっても薄れなかった。
教室に向かう足取りも自然と重くなる。廊下を歩く生徒たちの声はいつも通りなのに、自分だけ少し違うところに立っているような感覚があった。
「……」
それでも、立ち止まるわけにはいかない。
今日は特に、気を抜けない。
真希那には警戒するように伝えた。赤坂にも協力を頼んだ。葵先輩とも対策は共有した。やれることはやったはずだ。
なのに、落ち着かない。
そのまま生徒会室へ向かう。
扉の前で一度だけ息を整え、ノックをして中に入る。
「失礼します」
いつも通りの静かな空気が広がっていた。
ただ、今日は少し違う。葵の姿がなかった。
「……あれ」
思わず小さく漏れる。
夢百合葵がいないだけで、副会長周りの空気は驚くほど変わる。どこか隙間ができたような、妙に落ち着かない静けさだった。
「夢百合先輩は?」
真守が近くにいた坂下に尋ねると、坂下は淡々と手元の資料から目を離さずに答えた。
「先生に呼ばれてます。少し遅れるそうです」
「……そうですか」
短く返す。
そのとき、視界の端に赤い髪が映る。
結城だった。
すでに席についていて、いつものように長袖のワイシャツをきっちり着ている。周りがまだ半袖混じりの季節のままなのに、そこだけ妙に浮いて見えた。
「……」
結城は真守と目が合っても、特に何も言わなかった。
会長に言われた通り、仕事のこと以外では必要以上に絡まない。その距離感はここ数日で定着しつつあった。
それがありがたいようで、逆に不自然でもある。
「楽々浦君」
会長の声が飛ぶ。
「今日は夢百合君が少し遅れる。副会長補佐の指導は、各担当に散って覚えてもらおう」
「……はい」
返事をしながら、真守はわずかに嫌な予感を覚えていた。
結城は優秀なはずだ。少なくとも、試験の成績だけなら黒ヶ峰以上。けれど実務となると、どこか噛み合っていない場面がこれまでにも少しあった。
葵が間に入っていたから、大きく崩れずに済んでいた。
今日は、その葵がいない。
「山影君、まず庶務の流れを見せてあげてくれ」
「はい」
「坂下君は会計処理の簡単な部分から」
「承知しました」
「黒ヶ峰君は書記の整理を」
会長の指示は無駄がない。
そのまま自然に、結城が各部署の仕事に回されていく。
真守も副会長側の処理を進めながら、どうしても視線がそちらに向いてしまう。
最初に空気が崩れたのは、山影のところだった。
「遅ぇな」
低い声が、部屋の空気を少しだけ震わせる。
「……すみません」
結城が短く返す。
「正確なのは悪くねぇけど、庶務は早さもいる。そこ一枚やるのに何分かけてんだ」
山影の言い方は乱暴だったが、間違ってはいなかった。仕事としての指摘だ。
結城は「……はい」とだけ返し、もう一度やり直す。
その次は坂下のところだった。
「違います」
坂下の声は小さいが、よく通る。
「数字は合っています。でも、処理の順番が逆です」
「……」
「これでは確認に二度手間がかかります。効率が悪いです」
淡々としている。
だからこそ、逃げ場がない。
「もう一度説明しますので、今度は手順を見てください」
「……はい」
結城は表情を変えなかった。
ただ、返事が少しだけ小さくなる。
そして最後に、黒ヶ峰の番だった。
ここが一番まずい、と真守は思った。
黒ヶ峰は、もともと結城に対して敵対心を隠していない。自分より成績が上だと会長に言われた時から、その棘はずっと残っていた。
「……これ、ちゃんと見た?」
黒ヶ峰の声は低かった。
同級生相手だからか、最初から遠慮がない。
「見たよ」
「見てこれなら、逆にすごいんだけど」
「……」
「記録の抜き、順番ミス、要点もズレてる。え、それ本気でやってんの?」
言葉が刺さる。
黒ヶ峰は、淡々としながらも明らかに棘を乗せていた。
「そのレベルであたしより上って言われてんの?」
結城は黙ったまま、書類を見ている。
「正直、笑えないんだけど」
「黒ヶ峰」
真守が思わず名前を呼ぶ。
「何」
振り返りもしない。
「……少し言いすぎだろ」
「言いすぎ?」
黒ヶ峰がようやく視線を上げる。
「事実だけど」
言い返せない。
それが余計に空気を悪くする。
周りも、誰も庇わない。山影も坂下も、表には出さないが結城の仕事ぶりに不満は持っているのがわかる。
そして、その空気を決定的にしたのは、坂下の何気ない一言だった。
「副会長の補佐でこの状態ですと」
静かな声だった。
「夢百合さんがいなければ、何も回らないのではありませんか」
その言葉に、結城の指が止まる。
ほんの一瞬だった。
けれど、確かに止まった。真守はその小さな変化を見逃さなかった。
「……」
結城は何も言わない。
反論もしない。笑いもしない。ただ、表情がすっと薄くなる。感情を一枚剥がしたみたいに、何も乗らない顔になる。
その無言が、逆に見ていて苦しかった。
「——なるほど」
不意に、会長の声が落ちる。
いつから見ていたのかわからない。気づけば、少し離れた位置に立っていた。
誰も動けない。
会長は結城の手元の書類を一瞥し、それから、あまりにも穏やかな顔で言った。
「期待値が高すぎたかな」
「……」
結城の肩が、わずかに揺れる。
「優秀ではある。けれど——」
会長はそこで、少しだけ笑った。
「有能とは違うね」
静かだった。
怒鳴ったわけでもない。感情をぶつけたわけでもない。
それなのに、その一言が一番深く刺さったのが、見ていてわかった。
結城は、何も言わなかった。
ただ小さく視線を落とし、そのまま「……少し席外すね」とだけ呟いて立ち上がる。
誰も止めない。
止められない、という方が正しかった。
そして、結城はそのまま部屋を出ていった。
扉が閉まる。しばらく、誰も何も言わなかった。
真守の中に残ったのは、嫌な違和感だった。
仕事ができないことを責められるのはわかる。現場で使えないなら、指摘されるのも当然だ。
でも、今のは。
「……」
さすがに、見ていられなかった。
真守は立ち上がる。
「楽々浦君?」
会長が穏やかに呼ぶ。
「どこへ」
「……少し、様子を見てきます」
できるだけ平静に答える。
会長は一瞬だけ真守を見て、それから小さく微笑んだ。
「そうか。君は優しいね」
その言い方が妙に引っかかった。けれど、今はそれどころじゃない。
真守はそのまま扉を開け、生徒会室を後にした。
廊下は静かだった。
結城の姿を探す。
階段の方か、屋上か、あるいは使われていない空き教室か。頭の中で可能性を並べながら歩く。
そして、階段の踊り場でようやく見つけた。
結城は窓の近くに立ち、外を見ていた。
夕方にはまだ早い、白っぽい光が横顔に落ちている。
「……」
真守は少しだけ躊躇した。
ここで何を言えばいいのか、自分でもわからない。それでも、放ってはおけなかった。
「……結城」
声をかける。
結城はすぐには振り返らなかった。
数秒置いてから、ようやくこちらを見る。
その表情は、驚くほど静かだった。
さっきまでみたいな軽さもない。けれど、泣いているわけでも怒っているわけでもない。ただ、何かを全部内側に押し込めたみたいな顔をしている。
「……なに」
「いや……」
真守は言葉を探す。
「その……大丈夫か」
出てきたのは、あまりにもありきたりな一言だった。
結城は、ほんの少しだけ目を細める。
「大丈夫に見える?」
「……」
答えられない。
「見えないだろうね」
小さく笑う。
自嘲みたいな、力のない笑いだった。
「……」
真守は何も言えなかった。
結城は窓の外へ視線を戻す。
「うちさ、こういうの向いてないんだよね」
ぽつりと落とす。
「頭でわかっても、うまくできない。なのに、そういうのって一番許されないじゃん」
風が少しだけ吹き、長袖の袖口が揺れる。
「期待されるの、嫌いなんだよね」
その声は軽いようでいて、少しだけ掠れていた。
「できるって思われるほど、できなかった時に終わるから」
「……」
その言葉に、真守はさっきの会長の一言を思い出す。
"優秀"ではあるけれど、"有能"とは違う。
あれは、確かに人を折る言い方だった。
「……」
結城が少しだけ顔を傾ける。
「でもさ」
視線が真守に戻る。
「まも君は、追ってきてくれたじゃん」
「……」
「それだけで、ちょっとだけ救われた」
まっすぐな声だった。
作った感じがない。だからこそ、真守の胸の奥に引っかかる。
「……放っておけなかっただけだ」
正直に言う。
「仕事としても、中途半端だったし」
「ふふ」
結城が小さく笑う。
今度の笑いは、少しだけ本物に近かった。
「そういうとこ、やっぱ変わんないね」
「……またそれか」
真守は小さく眉をひそめる。
結城はそれ以上は言わない。ただ、「ごめん」とだけ小さく呟いた。
階段の踊り場に、静かな空気が落ちる。
完全にわかったわけじゃない。
信用したわけでもない。
それでも。
さっきまでよりは、少しだけ距離が変わった気がした。
結城はもう、ただの不気味な転校生ではなくなり始めていた。




