94話 俺×揺れ=わからなくなってきました。
屋上からの帰り道。
さっきまで胸の奥にあった重たいものが、少しだけ軽くなっているのがわかった。
完全に消えたわけじゃない。思い出せていない部分も、曖昧なままだ。
それでも。
あのまま何も知らずにいた時よりは、確実に前に進んでいる感覚があった。
「……」
夕焼けの余韻が残る空を見上げながら、ゆっくりと歩く。
結城の言葉。
葵の手の温度。
全部が、まだ頭の中に残っている。
それでも——苦しさはなかった。
あの、息が詰まるような感覚は、今はもうない。
「……少しはマシか」
小さく呟く。
そのまま帰路につく。
玄関を開けた瞬間。
「おっそい!!」
いきなり声が飛んできた。
「……うるさ」
靴を脱ぎながらため息をつく。
「おかえりの一言もないのかよ」
「あるよ!おかえり!」
「テンポがおかしいだろ」
リビングに入ると、真希那がソファの上で足をバタつかせていた。
完全に暇を持て余している顔だった。
「で?今日はどうだったのよ」
「何が」
「全部」
「雑すぎるだろ」
「いいからいいから」
ぐいっと身を乗り出してくる。
「顔ちょっと楽そうじゃん」
「……」
その一言に、少しだけ言葉が止まる。
「……まあ、ちょっとだけな」
正直に答える。
「お、珍しく素直じゃん」
「うるさい」
軽く流す。
「色々あって、少し整理できたっていうか」
「へぇ〜?」
真希那はニヤニヤしながら覗き込んでくる。
「女絡み?」
「違うわ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「じゃあその顔なに」
「どんな顔だよ」
「ちょっとスッキリしてる顔」
「抽象的すぎる」
そんなやり取りをしながら、ソファに腰を下ろす。
さっきまでの空気とは違う、いつもの騒がしさ。それが妙に心地よかった。
「……」
少しだけ間が空く。
「で?」
真希那がまた聞いてくる。
「結局どうなの」
「だから何が」
「その転校生とかさ」
「……」
少しだけ考える。
「……まだよくわかんねぇ」
正直な答えだった。
「けど、悪いやつじゃないとは思う」
「へぇ〜?」
「なんだよその反応」
「いや、珍しいなって」
「何が」
「まーくんが人のことちゃんと見ようとしてるの」
「……」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
「……うるさい」
結局それしか言えなかった。
真希那はくすっと笑う。
「いい傾向じゃん」
「別に」
「素直じゃないな〜」
「ほんと、うるさいな」
軽く言い合いながらも、空気は穏やかだった。
少しだけ、心が軽い。
そのまま立ち上がる。
「どこ行くの?」
「ちょっと外」
「また夜の散歩?」
「まあな」
「ふーん……」
真希那が意味ありげに笑う。
「会いたい人でもいるの?」
「いねぇよ」
即答する。
けれど。
「……」
完全に否定できない自分もいた。
外に出る。
夜の空気は、昼間の熱を少しだけ残しながらも、どこか落ち着いていた。
街灯の明かりが、ぽつぽつと道を照らしている。
静かだ。
心の中も、少しだけ静かになっている。
「……」
自然と足が向かう。
あの公園へ。
問題が少しずつ整理されてきている今。そのことを、誰かに話したいと思った。そして、その“誰か”は、はっきりしていた。
祇園。
あの人なら、きっと。
「……」
自分でも不思議だった。
あんな関係だったはずなのに、今は一番自然に話せる相手になっている。
歩く速度が、少しだけ上がる。
そして——
公園が見えてきた。
ベンチ。
街灯。
夜の静けさ。
「……」
その中に、人影があった。
「……」
一瞬、足が止まる。
それから、すぐに歩き出す。
「……祇園先輩?」
声をかける。
その人影が、ゆっくりと顔を上げた。
「……楽々浦くん」
「……」
なぜか、少しだけ安心する。
会えなかった日があったからか、自然と口元が緩んだ。
「久しぶりですね」
「……そうだね」
祇園は、小さく頷く。
けれど。
「……?」
違和感があった。
いつもより、声が弱い。表情も、どこか沈んでいる。
「どうしたんすか」
自然と聞いていた。
「元気ないですね」
「……そう見える?」
「はい」
はっきりと答える。
祇園は少しだけ視線を落とす。
「……ちょっとね」
曖昧な返事。
「……」
それ以上は踏み込まず、真守は隣に座る。
少しだけ距離を空けて。
「今日は、ちょっといいことあったんですよ」
ぽつりと言う。
祇園はゆっくりと顔を上げる。
「……そうなんだ」
「はい」
軽く頷く。
「少しだけ、前に進んだ気がして」
「……」
祇園は黙って聞いている。
「まだ全部はわかってないですけど」
「……」
「それでも、前よりはマシかなって」
夜の空気の中で、言葉がゆっくりと溶けていく。
祇園は、何も言わなかった。ただ、じっと聞いている。その時間が、心地よかった。
「……よかったね」
少し遅れて、そう返ってくる。
けれど。
どこか、遠い。
「……」
ふと、祇園の手が小さく震えていることに気づく。
「……祇園先輩?」
「……」
返事がない。
「大丈夫ですか」
少し身を乗り出す。
そのとき。
「……ねえ」
祇園が、ぽつりと呟いた。
「楽々浦くん」
「……はい」
ゆっくりと顔を上げる。
その目は、どこか決意を含んでいた。
「私と」
一瞬、間が空く。
「付き合ってくれない?」
「……」
思考が止まる。
あまりにも突然だった。
言葉の意味は理解できる。でも、それが現実として処理できない。
「……え」
かろうじて声が出る。
祇園は、目を逸らさない。
「……ずっと、思ってた」
静かな声。
「一緒にいると、楽で」
「……」
「優しくて」
「……」
「だから」
それ以上の言葉はなかった。
「……」
真守は、息を吐く。
頭の中が、ゆっくりと回り始める。
考える。
答えを出さないといけない。
でも。
「……」
浮かんでくるのは、迷いだった。
嫌いじゃない。むしろ、安心できる相手だと思っている。
それでも。
「……すみません」
言葉が、出る。
「今は……無理です」
はっきりと。
祇園の目が、わずかに揺れる。
「……そっか」
小さく笑う。
その笑顔が、どこか寂しい。
「……だよね」
「……」
沈黙が落ちる。
その中で。
「……じゃあ」
祇園が立ち上がる。
「これからは」
一瞬だけ、言葉を止める。
「会わない方がいいかもね」
「……は?」
思わず声が出る。
「なんで」
「……」
祇園は答えない。
ただ、少しだけ目を伏せて。
「……ごめんね」
それだけ言って。
そのまま、背を向ける。
「ちょ、待ってくださいよ」
思わず立ち上がる。
「なんで急に——」
「……」
振り返らない。
そのまま、歩いていく。
街灯の下を抜けて、暗がりの中へ。
「……」
止められなかった。
意味がわからない。なんで、そうなる。
頭の中に疑問だけが残った。
「……」
静かな公園に、一人取り残される。
さっきまで少し軽くなっていたはずの心が、またゆっくりと沈んでいく。
答えは出ない。
ただ。
何かが、確実にズレ始めている。
その感覚だけが、強く残っていた。




