93話 俺×断片=まだ繋がりません。
屋上へ続く階段は、いつもより長く感じた。
足音がやけに響く。三人分の靴音が、一定のリズムで重なっているはずなのに、その間に妙な空白がある気がした。
話すべきことは決まっているのに、誰も口を開かない。
夕方特有の、少しだけ湿った空気が、じわりと肌にまとわりつく。
「……」
真守は前を見たまま、ただ階段を上がっていた。
後ろにいる結城の気配と、すぐ横にいる葵の気配が、はっきりとわかる。
逃げ場はない。
そう思いながらも、不思議と足は止まらなかった。
最後の一段を上がる。
重たい扉を押し開けると、視界が一気に開けた。
屋上。
夕暮れ時だった。
空はオレンジと薄い紫が混ざり合っていて、街の輪郭がゆっくりと沈んでいく時間。
風は弱く、どこか静かすぎるくらいだった。
「……」
三人とも、少しだけ距離を空けて立つ。
そのまま、数秒の沈黙。
そして。
「……ねえ」
最初に口を開いたのは、結城だった。
「まも君」
呼び方に、わずかに胸が揺れる。
「もし辛くなったら、すぐ言って」
その声は、いつもの軽さとは違っていた。
少しだけ慎重で、どこか遠慮しているような響き。
「無理しなくていいから」
「……」
真守は、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
短く、それだけ。
それを確認して、結城も小さく息を吐く。
覚悟を決めるように。
「うちさ」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「昔、まも君に助けてもらったことあるんだよね」
「……」
その一言で、胸の奥がざわつく。
空気が、少しだけ重くなる。呼吸が、わずかに乱れる。
その変化に気づいたのか、すぐ隣で葵がそっと手を伸ばしてきた。
何も言わずに、真守の手を握る。
強くもなく、弱くもなく。ただ、そこにいるとわかる程度の力で。
「……」
その温度が、少しだけ現実に引き戻してくれる。
結城は、それを見てから、言葉を続けた。
「小学校の頃」
視線は、少しだけ遠くに向いていた。
「うち、ずっと一人でさ」
淡々とした語り口。
「別にいじめられてたとかじゃないんだけど、なんか……誰ともちゃんと話せなくて」
風が少しだけ吹く。
結城の赤い髪が、ゆっくりと揺れた。
「そんなときに、まも君が来て」
「……」
「普通に話しかけてきてくれて」
少しだけ、笑う。
「最初、なんでって思った」
「……」
「でも、気づいたら一緒にいるようになってた」
言葉は多くない。
それでも、断片的に情景が浮かぶ。
誰かと並んで歩く感覚。
夕焼けの色。
笑い声。
「公園とか」
結城がぽつりと言う。
その単語に、また胸がざわつく。
けれど、さっきほどの強さはない。葵の手が、しっかりとそこにあるから。
「よく行ってたよね」
「……」
「ブランコ乗ったり、鬼ごっこしたり」
断片。
それ以上は語らない。
けれど、その断片が、かえって生々しかった。
「……それで」
結城の声が、少しだけ落ちる。
「事故があって」
空気が、わずかに止まる。
「うち、ちゃんと覚えてるのそこまでなんだけど」
視線が、真守に向く。
「まも君が庇ってくれて」
「……」
「だから今、うちはここにいる」
それだけだった。
それ以上は語らない。けれど、その一言で十分だった。
「……」
真守は、ゆっくりと息を吐く。
全部を思い出せると思っていた。ここまで来れば、何かが繋がると思っていた。
けれど。
「……」
不思議なくらい、実感がなかった。
話は理解できる。繋がりも見える。
でも。
“自分の記憶”としては、そこに存在していない。遠い話を聞いているような、そんな感覚だった。
「……」
それでも、胸の奥に何かが引っかかる。
言葉にできない、曖昧な感覚だけが残る。
「……そっか」
ようやく、それだけ言えた。
結城は、それを聞いてから、ゆっくりと一歩近づき、距離が縮まる。
「……ありがと」
静かに言う。
「助けてくれて」
真っ直ぐな目だった。
誤魔化しも、軽さもない。ただ、それだけを伝えに来たような目。
「……」
真守は一瞬だけ言葉に迷って、
「……もう昔のことだから」
と、少しだけ肩の力を抜いて言った。
「気にしなくていいよ」
それは本音だった。
思い出せない以上、そこに執着することもできない。
けれど。
それでも。
「……そっか」
結城は小さく笑う。
その笑い方は、少しだけ寂しそうにも見えた。
それでも、どこか安心したようでもあった。
ほんの少しだけ、距離が近づく。さっきまでとは違う意味で。
その空気の中で。
「……ごめん」
今度は、葵が口を開いた。
「さっき、生徒会室で」
「……」
「強く言いすぎた」
まっすぐだった。
「先輩としてじゃなくて、感情で動いた」
「……」
「ほんとにごめん」
結城は、一瞬だけ驚いた顔をしてから、
「……別にいいですよ」
と、小さく返した。
「うちも態度悪かったし」
「……」
「おあいこってことで」
軽く肩をすくめる。
そのやり取りで、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
夕焼けの色が、さらに濃くなる。
三人の影が、長く伸びていく。
「……」
真守は、その空を見上げる。
何かが変わったのかどうかは、まだわからない。思い出せたわけでもない。全部が繋がったわけでもない。
それでも。
ほんの少しだけ。胸の奥のざわつきが、静まっている気がした。
完全じゃない。でも、ゼロでもない。
その曖昧な感覚だけが、静かに残っていた。




