92話 俺×均衡=壊れ始めてます。
翌日の生徒会室の空気は、いつもとほんの少しだけ違っていた。
静かであることに変わりはない。書類をめくる音やペンの走る音も、普段と同じだ。
それでも、どこか“待っている”ような空気があった。
「……」
真守が席に着いたタイミングで、扉がノックされる。
コン、コン。
「失礼しまーす」
軽い声。
その瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。
扉が開く。
そこに立っていたのは——
「今日からお世話になりまーす。結城紫音でーす」
結城だった。
教室で見るときと同じようでいて、少しだけ違う。ここでは“新入り”としての顔をしている。
視線が一斉に集まる。
山影は腕を組んだまま無言で見つめ、坂下は軽く会釈だけを返す。
そして。
「……」
黒ヶ峰だけが、わずかに視線を細めた。
露骨ではない。ただ、明確に“値踏み”している目だった。
「よろしくお願いします」
結城はそんな視線も気にした様子なく、軽く頭を下げる。その仕草すら、どこか自然すぎて違和感が残る。
「では、早速だが」
会長が立ち上がる。
「夢百合君、楽々浦君」
「はい」
「副会長の業務を教えてあげてくれ」
「かしこまりました」
葵が頷く。
「結城さん、こっち来て」
「はーい」
軽い返事。
そのまま三人で、生徒会室の奥にある副会長スペースへ移動する。
席に着こうとした、そのときだった。
「——ああ、そうだ」
背後から、会長の声。
振り返る。
会長は、結城を見ながら言った。
「結城君」
「はい?」
「楽々浦君は、どうやら君が苦手なようだから」
「……」
空気が止まる。
「必要以上に絡まないようにしてくれると助かる」
一切の悪気もないような口調だった。
けれど。
「……」
その場の温度が、一気に下がる。
言わなくていいことを、あまりにもそのまま言った。
葵の表情が一瞬固まる。
真守も、言葉を失う。
そして。
「……あ、そっか」
結城は、あっさりと頷いた。
「了解です」
あまりにも軽い。
「仕事のこと以外は話しかけないようにしますね」
にこっと笑う。その笑顔が、逆に場違いだった。
「助かるよ」
会長は満足そうに微笑み、そのまま視線を外した。まるで何事もなかったかのように。
「……」
誰も何も言えないまま、その場は流れていく。
そして、仕事は、すぐに始まった。
結城は——本当に、言われた通りだった。
書類の確認、入力作業、簡単な処理。
与えられた仕事は、正確にこなす。
だが。
それ以外では、まったく関わってこない。真守に対しても、視線すらほとんど向けない。
「……」
逆に不自然だった。
散々、あれだけ距離を詰めてきていたのに。
(……会長の一言でここまで変わるか?)
そう思う。
けれど、それ以上に。
(……あの圧か)
納得してしまう部分もあった。
会長のあの言い方。あの空気。
従わないという選択肢を消す、あの圧。
「……」
葵は、二人の間に立つような位置で動いていた。
明らかに意識している。結城が近づきすぎないように。真守に無理がかからないように。
“監視”に近い距離感だった。
そこから、約一週間。
時間はあっさりと過ぎていった。
真守は、少しずつ教室にも顔を出すようになり、生徒会にも変わらず参加していた。
結城との会話も、最低限ではあるが成立するようになっていた。
仕事に関するやり取りだけ。それ以上でも、それ以下でもない距離。
「……」
その中で。
ふと、違和感に気づく。
(……あいつ)
結城の服装。
まだ残暑が残るこの時期。
周りは夏服の半袖のシャツ。軽い装い。
それなのに。
結城だけが、長袖のワイシャツを着ていた。しかも、きっちりと袖まで下ろしている。
(……暑くないのか?)
一瞬そう思う。
けれど、それ以上深く考えることはなかった。ただ、ほんの少しだけ頭の隅に引っかかったまま。
そのまま、仕事に戻る。
「……ねえ」
空気が変わったのは、ほんの些細なことからだった。
葵の声。
いつもより、少しだけ低い。
「これ、さっきも言ったよね?」
「……」
結城が無言で画面を見る。
「同じミス、三回目なんだけど」
「……」
「ちゃんと確認してから出してって言ってるよね?」
その言い方は、完全に“先輩”としてのものだった。
「……やってるし」
結城が返す。
タメ口。明らかに、舐めた態度。
「やってないから言ってるんだけど」
葵の声がさらに低くなる。
「これ、生徒会の仕事だから」
「……別にそんな大したことじゃなくない?」
「——は?」
空気が、一気に張り詰める。
「今、なんて言った?」
「だから」
結城は顔を上げる。
「そんな大した仕事じゃなくないって」
完全に挑発だった。
「……」
葵の中で、何かが切れたのがわかった。
次の瞬間。
「ちょっと来て」
結城の手首を掴む。
「痛っ!」
結城が声を上げる。
その瞬間。真守の視線が、手首に向く。
「……」
袖が少しだけずれる。
そこに見えたのは——包帯。
(……だから長袖か)
一瞬で繋がる。
その間にも。
「ちゃんとやる気あるの?」
葵の声は、明らかに怒っていた。
「先輩として言ってるんだけど」
「痛いって言ってんじゃん!」
結城が強く言い返す。
空気が完全に崩れる。
「ちょっと待ってください——」
真守が間に入ろうとした、その瞬間。
ガチャ。
扉が開く音。
「——何をしているのかな」
会長だった。
一瞬で、空気が凍る。
会長は真っ直ぐ、葵の方へ歩いていく。
そして——
「夢百合君」
そのまま、髪を掴んだ。
ぐっと、強く引く。
「っ……!」
葵の体がわずかに揺れる。
「生徒会を乱す行為は、やめてもらおうか」
声は静かだった。
けれど、圧が異常だった。
「……すみません」
葵はすぐに手を離す。
結城の手首から、力が抜ける。
それでも。
会長の手は、離れない。髪を掴んだまま。
「……」
その光景を見て。
「——離してください」
真守が動いた。
会長の手首を掴む。
強く。
そのまま睨みつける。今までにないほど、はっきりと。
「それ以上は」
低い声。
「さすがに、見過ごせません」
「……」
空気が、止まる。
生徒会室の全員が動けない。
会長と真守だけが、対峙している。
数秒。
ほんの短い時間。
それでも、異様に長く感じた。
やがて。
「……ふむ」
会長は、小さく笑った。
そして手を離し、葵の髪から力が抜ける。
「楽々浦君にそう言われてしまっては、仕方ないね」
余裕のある笑み。
まるで、最初からこうなることを楽しんでいたかのように。
「今回は、この辺にしておこう」
それだけ言って、会長はその場を去った。
扉が閉まる。
「……」
静寂。
誰も動かない。
「……葵先輩」
真守が、すぐに葵を見る。
「大丈夫ですか」
「……うん」
少しだけ顔を伏せる。
「大丈夫」
声は震えていなかった。
けれど、手はわずかに力が入っていた。
「ほんとに?」
「……うん」
短く答える。
「ごめん、取り乱しちゃった」
「謝らないでください」
すぐに返す。
「……」
そのやり取りの横で。
「……」
結城が、立っていた。
静かに。
そして。
ぽつり、と。
涙が落ちた。
音もなく。
ただ、静かに。
「……」
その姿を、無視はできなかった。
真守は、少しだけ視線を向ける。
「……なんで、泣いて——」
聞こうとする。その前に。
「……うちさ」
結城が口を開いた。
声は、いつもよりずっと小さい。
「まも君に、話さないといけないことある」
「……」
真守の心臓が、わずかに強く鳴る。
「放課後」
顔を上げる。涙を拭かずに。
「屋上、来て」
真っ直ぐだった。逃げ場のない目。
「……」
一瞬、言葉に詰まる。
そのとき。
「私も行く」
葵が言った。
結城を見る。
「私がいてもいいなら」
間を置かずに続ける。
「条件として、それは譲れない」
「……」
結城は、ほんの一瞬だけ黙ってから。
「……いいよ」
小さく頷いた。
そのまま、視線が真守に向く。
夕方の光が、わずかに差し込む。
「ちゃんと、話すから」
その言葉だけが、やけに重く残った。




