91話 俺×対峙=逃げません。
朝の教室に向かう足が、自然と止まった。
昇降口を抜けて、廊下を進み、いつもならそのまま教室へ入るはずの流れ。その途中で、ほんのわずかに足が鈍る。
扉の向こうに、誰がいるのかを考えてしまうからだ。
「……」
小さく息を吐く。
考えなくてもいいことだとわかっている。それでも、昨日の出来事が頭から離れない以上、完全に無視することはできなかった。
結城の言葉。
あの瞬間の息苦しさ。
身体が言うことを聞かなくなる、あの感覚。
「……」
一瞬だけ目を閉じる。
それから、ゆっくりと向きを変えた。
教室とは逆方向へ。向かう先は、もう決まっていた。
生徒会室。
ノックをして扉を開ける。
「失礼します」
中に入ると、昨日と同じように静かな空気が広がっていた。
ただ、その中で。
「……楽々浦くん」
すぐに声がかかる。
葵だった。
席から立ち上がり、そのままこちらへ歩み寄ってくる。
「大丈夫?」
開口一番、それだった。
「……はい」
短く返す。
けれど、それで納得する様子はなかった。
「ほんとに?」
少しだけ距離が近い。
昨日、保健室で見た表情が、そのまま残っているように感じる。
「無理してない?」
「……大丈夫です」
「その言い方、全然大丈夫じゃないよ」
苦笑しながらも、視線は真剣だった。
「……すみません」
「だから謝らなくていいって」
すぐに返される。
「昨日のこと、覚えてる?」
「……はい」
忘れられるはずがなかった。
「あのあと、結城さんは帰ってもらったから」
葵が続ける。
「今日は私から……会長にちゃんと話す」
「……」
「接触、できるだけ避けてもらうようにする」
その言葉には迷いがなかった。
「昨日のあれ見たら、そのままにしておけないから」
「……でも」
言いかけた、その瞬間。
「——おや」
扉の開く音とともに、声が重なる。
「ちょうどいいところに揃っているね」
会長だった。
いつも通りの穏やかな笑顔。
まるでタイミングを見計らっていたかのように現れる。
「おはようございます」
葵が先に頭を下げる。
真守もそれに倣う。
「おはよう、二人とも」
軽く笑ってから、すぐに本題に入る。
「さて、結城君の件だけれど」
「……」
空気が変わる。
葵が一歩前に出た。
「その件で、少しお願いがあります」
「ほう?」
会長は、興味深そうに首を傾ける。
「結城さんと楽々浦くんの接触を、しばらく避けていただきたいです」
はっきりと言い切る。
「昨日、楽々浦くんが体調を崩しました」
「……」
「原因は明らかに結城さんとの接触です」
言葉を選ばず、真っ直ぐに。
「これ以上、同じことが起きる可能性がある以上、距離を置くべきだと思います」
正論だった。
「なるほど」
会長は一度頷く。
「君の言いたいことは理解できる」
そう言いながら。
ほんのわずかに、表情が歪む。
「だが、それは難しいね」
「……え?」
葵の眉が寄る。
「結城君には副会長の業務を覚えてもらう予定だ」
淡々と告げる。
「その場合、当然、夢百合君や楽々浦君と同じ空間で動くことになる」
「それは……」
葵が食い下がる。
「役割を分ければ済む話です」
「そうかな?」
声の温度が、わずかに下がる。
「効率を落としてまで配慮する理由はあるのかな」
「それは——」
「それに」
ここで、明確に空気が変わった。
「夢百合君」
名前を呼ぶ。
その声音には、先ほどまでの柔らかさはない。
「僕は君の意見を聞いているわけじゃない」
「……っ」
空気が、一気に張り詰める。
「判断するのは楽々浦君だ」
静かなのに、圧がある。明確な線引きだった。
「……」
葵が、わずかに唇を噛む。
その姿を見ていられなくて。
「——やります」
真守が口を開いた。
二人の視線が同時に向く。
「副会長の件も」
ゆっくりと言葉を重ねる。
「結城とも、ちゃんと向き合います」
「……楽々浦くん」
葵が小さく呼ぶ。
「大丈夫です」
言い切る。
「いきなりは無理でも、少しずつ慣れていけばいいだけなんで」
本音だった。
怖さはある。
けれど、それを理由に止まり続けるわけにもいかない。
「……」
会長はその様子を見て——
「いい判断だ」
満足そうに微笑んだ。
「それでこそだよ、楽々浦君」
その声は、さっきまでとは打って変わって穏やかだった。
「では、この件はそれで進めよう」
それだけ言って、会長はその場を後にする。
扉が閉まり、静寂が戻る。
「……」
しばらく誰も何も言わない。
やがて。
「……ごめん」
葵が小さく呟く。
「私がちゃんと押し通せなかったから」
その声には悔しさが滲んでいた。
「楽々浦くんに、あんなこと言わせて」
「……」
真守はゆっくりと首を振る。
「違います」
「え?」
「俺が決めたことなんで」
「でも——」
「それに」
少しだけ笑う。
「葵先輩には、もう十分助けてもらってます」
「……」
葵の目が揺れる。
「昨日も、その前からも」
「……」
「だから、謝らないでください」
はっきりと言う。
「これ以上助けてもらったら、逆に申し訳なくなるんで」
少しだけ冗談めかす。
「……」
葵はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「……ほんとに」
小さく笑う。
「そういうとこ」
視線を上げる。
「どんどん好きになる」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出る。
葵はそのまま、
「冗談じゃないよ」
と、さらっと言った。
「え、いや……」
思考が追いつかない。
「……その反応、予想通り」
少しだけ楽しそうに言う。
「……」
何も返せない。
さっきまでの重い空気との落差が大きすぎた。
葵はそんな様子を見て、くすっと笑ってから席へ戻る。
「ほら、仕事しよ」
「……はい」
反射的に返す。
けれど、ペンを持ってもしばらく文字は書けなかった。
胸の奥に残っているのは、不安でも恐怖でもなく——まったく別の、整理できない感情だった。




