90話 俺×再会=まだ思い出せません。
放課後終わりの校舎は、昼間とは違う静けさを持っていた。
部活へ向かう生徒たちの足音や、廊下の向こうで誰かが笑う声は聞こえるのに、それが妙に遠い。窓の外はもう夕方の色に染まり始めていて、教室の中に残っていた熱気も、ゆっくりと抜けていくところだった。
真守は鞄を肩にかけ、生徒会室の扉を閉める。今日は葵も同じタイミングで作業を切り上げたらしく、自然と二人で廊下を並んで歩く形になった。
「……楽々浦くん」
葵が、少しだけ様子を窺うように声をかけてくる。
「はい」
「今日は、ずっと顔色がよくなったと思ったんだけど」
そこで一度言葉を切る。いつもみたいに軽く流すこともできたはずなのに、葵はそうしなかった。
「やっぱり、無理してるよね」
夕方の廊下に、その声だけが静かに落ちる。
真守はすぐには答えなかった。誤魔化すこともできる。いつものように「大丈夫です」と言ってしまえば、それで一応の形にはなる。でも、今日はそれが妙にできなかった。
少しだけ歩幅を緩める。
窓の外を見る。校庭の端に長く伸びた影が見える。
「……転校生のことです」
ぽつりと、ようやく出た。
葵は驚いたような顔はしなかった。ただ、やっぱりというふうに、少しだけ目を細めた。
「結城さん?」
「はい」
短く頷く。
「なんか……うまく言えないんですけど」
言葉を探しながら、ゆっくりと歩く。急いで言えば、たぶん自分でも整理できなくなると思った。
「結城は、昔会ったことある人かもしれなくて」
その一言に、葵の足がわずかに止まりかけた。
「……昔?」
「小学校の頃のこと、ほとんど覚えてない時間があって」
真守はそのまま続ける。ここで止まったら、たぶんもう二度と言えない気がした。
「実家に帰ったとき、アルバム見たんです。そしたら……変なとこがいっぱいあって。途中だけ妙に写真が少なかったり、母さんに話を聞いたら、昔、事故にあってて、一部の記憶が曖昧になってるって」
「……」
葵は黙って聞いている。
その沈黙がありがたかった。下手に相槌を打たれるより、ずっと話しやすい。
「で、そこからちょっとずつ変なんです。昔のことを思い出そうとすると、頭の奥が痛くなるっていうか……呼吸が浅くなる感じがして。体が、自分のものじゃなくなるみたいで」
言いながら、胸の奥が少しだけ重くなる。あの感覚を思い出したせいだろう。
「だから避けてるんです。あっちが悪いとかじゃなくて、たぶん、俺が勝手に怖がってるだけで」
そこまで言ってから、真守は少しだけ自嘲気味に笑った。
「……情けないですよね」
葵は首を横に振った。
「情けなくないよ」
即答だった。
「怖いものを怖いって思うのは、普通だよ」
その言い方があまりにも自然で、真守は少しだけ目を伏せる。
「でも」
葵が続ける。
「昔会ったことがあるかもしれないなら、なおさら……なんでそんなに避けるのかなって、少し思ったりしたんだけど」
責めるような口調じゃない。本当に疑問として、静かに問われているのがわかる。
真守は少しだけ苦く笑う。
「思い出したい気持ちは、あります」
それは本当だった。気にならないはずがない。
「でも、思い出そうとしたときに、自分が自分じゃなくなる感じがするのは……普通に怖いです。何が出てくるかわからないし、それで周りに迷惑かけるのも嫌だし」
言葉にしてしまうと、案外単純だった。
怖いから避ける。ただ、それだけだ。
「……そっか」
葵は小さく頷く。
その表情には、納得と心配が半分ずつ混ざっている。
「じゃあ、無理に思い出さなくていい」
「……」
「って言いたいけど」
少しだけ困ったように笑う。
「会長が絡んでる以上、そうもいかなそうなのが嫌だよね」
「はい」
それには、真守も苦笑するしかなかった。
階段を下り、昇降口へ向かう。会話が途切れても気まずくないのは、たぶん葵が必要以上に踏み込まないからだろう。言わないことを責めないでいてくれる。その距離感が、今の真守にはちょうどよかった。
そして、校門を出た、そのときだった。
「やっと出てきた」
夕方の光の中に、聞き慣れた声が差し込む。
真守の体が、反射的に強張った。
視線の先。校門の脇、外灯のそばに結城が立っていた。壁にもたれかかるでもなく、ただ自然にそこにいるのが、逆に落ち着かない。
結城は二人を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「まも君、今日も一緒に帰ろ!」
「……」
その呼び方に、真守の肩がわずかに揺れる。
結城が一歩近づこうとした、その前に——
「待って」
葵がすっと前に出た。
ほんの半歩だけ。それでも、はっきりと真守を庇う位置だった。
「……葵先輩」
真守が小さく呼ぶ。
「大丈夫」
葵は短くそう言って、それから結城を見た。
「少し話があるの」
結城はきょとんとした顔をする。
「うちに?」
「うん」
葵は一瞬だけ真守を見て、それから仕事の顔に戻った。
「生徒会のこと。会長から、声をかけておいてって言われてる」
「……」
真守は思わず葵を見る。
ここで言うのか。いや、タイミングとしては間違っていない。むしろ今しかないのかもしれない。そうわかっているのに、胸の奥がざわつく。
葵も少し慌てていた。準備していた言葉を並べようとしているのがわかる。
「その、結城さん、成績もいいし——」
「入る」
「……え?」
葵が止まる。
真守も止まる。
結城はあまりにもあっさりと言った。
「別にいいよ。生徒会、面白そうだし」
「……」
拍子抜けするほど簡単だった。
葵は目を丸くしたあと、「あ、ほんと?」と小さく聞き返す。結城は笑って頷く。
「うん。まも君もいるんでしょ?」
その一言に、また空気が変わった。
真守は無意識に息を止める。
結城はそれに気づいた様子もなく、少しだけ首を傾げた。
「そういえばさ、まも君」
嫌な予感がした。
「昔、一緒に遊んだ公園って、まだある?」
「……っ」
その瞬間、世界の色が変わった。
夕方の空気が、一気に遠のく。音が薄くなる。視界の端が白くなる。
——公園。
——夕焼け。
——ベンチ。
——誰かの声。
喉が勝手に締まった。
「は……」
息を吸えない。
胸の奥を鷲掴みにされたみたいに痛い。頭の中で何かが無理やり動き出し、開いてはいけない扉をこじ開けようとする。
「楽々浦くん!?」
葵の声が近いのに遠い。
膝に力が入らなくなる。足元が揺れる。視界の中で結城の赤い髪だけが妙に鮮やかに見えた。
「……まも君?」
結城が近づこうとする。
「来ないで!」
葵の声が鋭く響いた。
今まで聞いたことのないくらい、切迫した声だった。
「これ以上近づかないで!」
結城の足が止まる。
その間にも、真守の呼吸はどんどん浅くなっていく。吸っているつもりなのに、空気が肺に入ってこない。指先が冷たい。耳の奥で脈が鳴る。
——まも君。
——ねぇ、あっち行こ。
——だいじょうぶだよ。
声が重なる。知らないはずの景色が、断片だけで押し寄せてくる。
「……っ、ぁ……」
うまく立っていられない。
葵が慌てて腕を掴む。
「楽々浦くん、こっち見て。大丈夫、大丈夫だから」
声が震えているのに、必死に落ち着かせようとしてくれているのがわかる。
「息、ゆっくり。ほら、吸って」
でも、できない。
怖い。
思い出したくないのに、勝手に出てくる。体の奥から、何かが這い上がってくる感覚だけが止まらない。
「……」
結城は動かなかった。
葵に睨まれたまま、ただそこに立っている。さっきまでの軽い表情は消えていた。驚きと、わずかな戸惑いと、言葉にできない何かが混ざった顔。
でも、その表情を見ている余裕はなかった。
視界がぐらりと揺れる。
「楽々浦くん!」
葵の声が、今度は本当に遠くなった。
そのまま、意識が途切れた。
――――――
次に目を開けたとき、最初に見えたのは白い天井だった。
「……」
ぼんやりする。
どこだ、と思ってから、鼻に入る消毒液の匂いでなんとなく理解した。
保健室だ。
体は重い。頭も少し痛い。でも、さっきみたいな息苦しさはなかった。
「……」
少しだけ視線を動かす。
その瞬間、ぐっと指先に力が入った。
誰かが手を握っている。
「……あ」
葵だった。
ベッドの横の椅子に座って、真守の手を両手で包むように握っている。顔を伏せていたのか、真守が動いた気配で慌てて顔を上げた。
目が赤い。
「……楽々浦くん」
その声は、かすれていた。
「よかった……」
本当に安堵したように、肩の力が抜けるのがわかった。
「……すみません」
思わずそう言うと、葵は首を横に振る。
「謝らないで」
その一言のあと、葵の表情が崩れた。
「急に倒れるから……ほんとに、もう……」
泣きそうな声になる。
そして次の瞬間、椅子から身を乗り出して、そのまま真守に抱きついた。
「……っ」
不意打ちだった。
柔らかい感触と、細い腕の力が一気にのしかかる。
「よかった……ほんとによかった……」
肩口で、葵の声が震える。
「……葵先輩」
「うん……」
「その、安心してくれるのはありがたいんですけど」
「……うん」
「今はあんまり激しく揺らさないでもらえると助かります」
「……え?」
一拍遅れて、自分がかなりの勢いで抱きついていることに気づいたらしい。
葵はびくっとして、慌てて離れた。
「ご、ごめん!」
「いえ」
真守は苦笑する。
「苦しいのは、さっきので十分です」
「……っ」
葵が一瞬だけ呆けたあと、泣き笑いみたいな顔になる。
「そういう冗談言えるなら、ほんとに大丈夫そうだね」
「まだ頭は重いですけど」
「それはそうだよ……」
少しだけ空気が柔らかくなる。
保健室の中は静かだった。カーテンの向こうにも人の気配はない。たぶん今は二人きりだ。
「……」
少しだけ間が空く。
葵は握っていた真守の手を見て、そっと力を緩めた。でも完全には離さない。
「さっきの」
静かに聞いてくる。
「公園って聞いたとき、急に……」
「……はい」
真守は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「たぶん、そういうことなんだと思います」
「そういうこと?」
「実家に帰ったとき、アルバム見たって話、したじゃないですか」
葵は小さく頷く。
「そのとき母さんに聞いたら、俺、公園で事故にあってるらしくて」
「……」
「それで、一部の記憶が抜けてるって」
口に出しながら、自分でも整理するような感覚になる。
「思い出そうとすると、こうなるんです。頭の奥が痛くなって、息ができなくなって……体が言うこときかなくなる感じで」
「……ずっと?」
「たぶん、ここ最近です。昔のことをちゃんと意識し始めてから」
葵は黙って聞いていた。
途中で遮らない。その沈黙がありがたい。
「だから、結城が何か知ってるみたいに話すと……怖いんです」
本音だった。
「知りたい気持ちもあるのに、触れた瞬間にこうなるのがわかってるから」
「……」
葵は真守の手をそっと握り直す。
「じゃあ、無理しなくていい」
その言葉は、はっきりしていた。
「思い出すのは大事かもしれないけど、壊れそうになってまで急ぐことじゃない」
「……」
「少なくとも、私はそう思う」
その声は優しかったけれど、優しいだけじゃなかった。真守の味だという意志が、ちゃんと感じられる声だった。
「……ありがとうございます」
小さく言う。
葵は少しだけ笑う。
「でも」
「……はい」
「次からは、倒れる前に言って」
真っ直ぐ見られる。
「今日、ほんとに怖かったから」
「……」
その言葉に、何も返せなくなる。
自分が苦しかった以上に、相手にそんな顔をさせたことの方が、じわじわと胸に刺さった。
「……気をつけます」
「うん」
葵が頷く。
それから少しだけ表情を和らげて、
「あと、結城さんにはしばらく私から近づかせない」
と、妙にきっぱり言った。
「……それは」
「譲らない」
即答だった。
「今日のあれ見たら、さすがに」
真守は少しだけ苦笑する。
「……怖かったですか」
「すごく」
葵はあっさり認めた。
「楽々浦くんが倒れるのも怖かったし、あの子が何考えてるかわからないのも怖い」
「……」
「でも、今は」
そこで少しだけ声が柔らかくなる。
「こうして起きてくれたから、それでいい」
保健室の窓の外は、もうかなり暗くなっていた。
さっきまでの緊迫感が嘘みたいに、時間がゆっくり流れている。
「……葵先輩」
「ん?」
「今日は、その……ありがとうございました」
葵は少しだけ目を丸くして、それから照れくさそうに笑った。
「うん。ちゃんと感謝された」
「いつもしてます」
「今日はちょっと特別」
そう言って、また少しだけ手に力を込める。
真守はその温度を感じながら、ようやく自分の呼吸が本当に落ち着いてきたことを知った。
昔のことは、まだ思い出せない。
空白の時間も、事故のことも、全部が曖昧なままだ。
でも。
今、この場所で自分の手を握ってくれている温度だけは、はっきりとしていた。
それが少しだけ、心を落ち着かせてくれていた。




