89話 俺×逃げ場=ありません。
放課後。
教室のざわめきは、時間が経つにつれて少しずつ形を変えていく。昼休みのような騒がしさではなく、どこか浮ついた、気の抜けた音に変わっていく。
椅子を引く音、笑い声、部活の話。
その中に、あの視線が混ざっていないことだけが、はっきりとわかる。
「……」
真守は、席を立つタイミングを少しだけ遅らせた。
誰かと目が合わないように。余計な会話に巻き込まれないように。
鞄を持ち、静かに教室を出る。
廊下に出た瞬間、肺の奥に溜まっていたものを吐き出すように、ゆっくりと息を吐いた。
「……はぁ」
軽くなった。
理由は単純だった。
結城がいない。それだけで、ここまで違うのかと、自分でも少し呆れる。
足は迷うことなく、生徒会室へ向かっていた。
逃げている。そう思いながらも、足は止まらない。あの空間から離れたい。その一心だった。
階段を上がり、見慣れた扉の前に立つ。
ノックをして、開ける。
「失礼します」
中に入った瞬間、空気が変わった。
静かだった。
ただ静かなだけじゃない。全員が同じ方向を見ているような、張り詰めた集中の中の静けさ。
紙をめくる音。ペンの先が走る音。キーボードを叩く規則的な音。
誰も余計な言葉を発しない。
その空気の中で。
「……楽々浦くん」
葵の声だけが、ほんの少しだけ温度を持っていた。
「おかえり」
「……はい」
短く返す。
それだけなのに、不思議と肩の力が抜ける。
ここには、余計な視線がない。感情がぶつかることもない。ただ、やるべきことだけがある場所。
椅子に座ると、すでに自分の分の書類が綺麗に揃えられていた。
「……これ」
「先に進めておいた」
葵が言う。
「少しでも楽になるかなって思って」
「……」
一瞬、言葉が出てこなかった。
「……すみません」
自然と口に出る。
「だから、謝らなくていいって」
すぐに返される。
「それに——」
少しだけ間を置いて、
「楽々浦くん、最近ずっと無理してるでしょ」
「……」
視線が止まる。
「顔見ればわかるよ」
柔らかい声だった。
責めるでもなく、ただ事実を置くような言い方。
「……大丈夫です」
反射的に返す。
「大丈夫じゃない人の言い方だよ、それ」
少しだけ苦笑する。
その言葉に、何も返せなかった。
「……」
視線を逸らし、書類に目を落とす。
そのときだった。
「——楽々浦君」
背後から声。
会長だった。
いつもの穏やかな笑顔。けれど、その笑顔の奥にあるものは、相変わらず読み取れない。
「学校生活は順調かい?」
「……はい」
短く答える。
「それは何よりだ」
軽く頷く。
それだけのやり取りなのに、空気がわずかに張り詰める。
「それで」
自然な流れで続けられる。
「スカウトの件はどうかな」
「……」
一瞬、思考が止まる。
「進展はあったかな?」
逃げ場のない問い。
「……まだです」
絞り出すように答える。
「なるほど」
会長はあっさりと頷いた。
「まあ、そう簡単な話ではないだろうね」
理解を示す言葉。けれど、それは許しではない。
「ただ」
ほんのわずかに間を置く。
「彼女は優秀だ」
また、その話。
「黒ヶ峰君を上回る成績」
黒ヶ峰が一瞬だけ反応する。
「この学校では珍しい人材だ」
淡々と続ける。
「だからこそ、こちらとしても動きを止めるわけにはいかない」
「……」
言葉が出ない。
「焦らせるつもりはないが」
そう言いながら、逃がさない。
「時間も無限ではないからね」
静かに、圧をかけてくる。
「……」
何も言えないまま、沈黙が落ちる。
その中で、会長はほんの少しだけ近づき、
「それにしても」
軽く、何気ない調子で言った。
「彼女、君のことをよく知っているみたいだね」
「……っ」
呼吸が、止まる。
一瞬だった。それでも、はっきりとわかる。
「……どういう意味ですか」
なんとか言葉にする。
「さて」
会長は微笑む。
「それは君が一番知りたいことじゃないかな」
答えは与えない。ただ、揺らすだけ。
「……」
そのまま会長は離れていく。
何も言えないまま、立ち尽くす。
静寂が戻る。
何もなかったかのように、全員が作業に戻っている。
けれど。
「……楽々浦くん」
葵の声。
さっきよりも、少しだけ近い。
「ほんとに大丈夫?」
「……」
顔を上げる。
葵は、はっきりとこちらを見ていた。
仕事中の顔じゃない。完全に“個人として”の表情。
「さっきから、ずっと顔色悪いよ」
「……平気です」
「平気な顔してない」
間髪入れずに返される。
「ねえ」
さらに一歩、距離が近づく。
「無理してない?」
「……」
言葉が詰まる。
「スカウトのことも」
静かに続ける。
「嫌なら、ちゃんと言っていいんだよ」
「……」
心臓が、少しだけ強く鳴る。
「私がフォローするし、会長にも、私から話す。だから——」
そこで少しだけ言葉を選ぶように間を置いて、
「一人で抱え込まなくていい」
「……」
その言葉が、思ったよりも重く落ちた。
優しさだった。逃げ場でもあった。
でも——
「……大丈夫です」
口から出たのは、同じ言葉だった。
「やります」
少しだけ強く言う。
「……」
葵の表情が、ほんの少しだけ揺れる。
「……そっか」
それ以上は、踏み込まなかった。
「無理だけはしないでね」
それだけ言って、距離を戻す。
「……」
その背中を見ながら、何も言えなかった。
作業に戻り、ペンを持つ。そして、書類を見る。けれど、頭の中はまったく動いていなかった。
——よく知っているみたいだね
その言葉だけが、何度も反響する。
逃げたはずだった。
教室から、あの視線から、結城から。
それなのに。
ここでも、追いつかれている。
「……」
気づいてしまう。
もうどこにも、逃げ場はない。
その事実だけが、ゆっくりと、確実に心の奥に沈んでいった。




