88話 俺×ランチタイム=ズレてます。
昼休みの少し前。
黒板に書かれている文字は目に入っているのに、その意味がうまく頭に入ってこなかった。教師の声も確かに聞こえているはずなのに、どこか遠くで響いているような感覚がある。
ノートを取る手だけが機械的に動いていて、自分が何を書いているのかも曖昧だった。
「……」
小さく息を吐く。
考えないようにしているのに、どうしても頭の片隅に残るものがある。
結城のことだった。
はっきりした理由はないのに、無視できない何かがずっと引っかかっている。
ふと横を見ると、結城はごく普通に授業を受けていた。前を向いて、ノートを取り、必要なところで軽く頷く。
それは、あまりにも“普通”で。
だからこそ、余計にわからなくなる。
何がおかしいのか。何が引っかかっているのか。自分でも言葉にできないまま、ただその違和感だけが残り続けていた。
やがて、チャイムが鳴る。
キーンコーンカーンコーン。
その音をきっかけに、教室の空気が一気に崩れた。
「終わったー!」
「腹減った!」
「食堂行こうぜー!」
椅子を引く音や笑い声が重なり、さっきまでの静けさが嘘みたいに消えていく。
真守もペンを置き、軽く肩を回した。
その瞬間、背後から声が飛んでくる。
「おい楽々浦!」
振り返るまでもなく、神宮丸だった。
「今日こそ飯行くぞ!逃げんなよ!」
「逃げる前提で話すな」
「だって最近すぐ消えるじゃん」
「お前がうるさいからだろ」
「ひでぇ!」
いつものやり取りだった。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
そんなやり取りの流れで席を立とうとしたとき、前の席の白ヶ崎が振り返った。
「……行くの?」
「ああ」
短く答えると、白ヶ崎は間を置かずに続ける。
「じゃあ私も行く」
「なんでだよ」
「ダメなの?」
「ダメじゃないけど」
「ならいいでしょ」
あっさり決まる。
そのやり取りを見ていた神宮丸が、面白そうに口を挟んだ。
「なんかもう固定メンツになってきてね?」
「うるさい」
「うるさい」
ほぼ同時だった。
「仲良すぎだろお前ら」
「よくない」
「よくない」
また揃う。
「なんなんだよ!」
そんな騒がしい空気の中に、ふと別の声が混ざった。
「ねぇ」
横から、自然に。
「うちも一緒にいい?」
「……」
真守の動きが、一瞬だけ止まる。
視線を向けると、結城がそこに立っていた。
いつもの距離。いつもの表情。
「だめ?」
少しだけ首を傾ける。
神宮丸は特に気にする様子もなく、「いいじゃん!」と軽く返した。
白ヶ崎は露骨に眉をひそめる。
「……別に」
明らかに不機嫌だった。
「じゃ、決まり」
結城はそのまま自然に輪の中に入ってくる。
断るタイミングは、もうなかった。
教室を出て、食堂へ向かう。
廊下は昼休みの生徒で混み合っていて、流れに乗るように歩くしかない。
「今日はカレーだな!いやでも唐揚げもありだな!」
神宮丸が先頭で騒ぎながら進んでいく。
「楽々浦は何にするんだ?」
「まだ決めてねぇよ」
「白ヶ崎さんは?」
「……気分」
「参考にならねぇ!」
そんなやり取りの中で、不意に横から声が差し込む。
「まも君ってさ」
「……」
「給食より購買派っぽいよね」
「は?」
神宮丸が先に反応した。
「なんだそれ」
「なんとなく」
結城は肩をすくめる。
「自分で決めて、自分で買って、さっさと食べる感じ」
その言い方に、わずかな違和感が残る。
今の話をしているようで、どこか違う。
「楽々浦ってそうなのか?」
神宮丸に聞かれ、真守は少しだけ言葉を濁した。
「……別に」
「でもなんかわかるわ」
神宮丸は勝手に納得して笑う。
「こいつ団体行動向いてなさそうだし」
「お前にだけは言われたくない」
その横で、白ヶ崎は何も言わなかった。ただ、わずかに視線が鋭くなっている。
食堂に着いて席を確保し、各自で食事を取りに行く。
戻ってきてからの流れは、いつもと変わらなかった。
神宮丸が話題を振り、白ヶ崎が最低限で返し、真守が適当にツッコミを入れる。
結城も、その輪へ自然に混ざっていた。
違和感なんてない、はずだった。
「まも君ってさ」
また、結城が口を開く。
「辛いの苦手そうだよね」
「なんでそうなる」
「顔に出そうだから」
「出さないよ」
「出るよ」
あっさり言い切る。
その言葉の軽さとは裏腹に、ほんの少しだけ引っかかる。
「ちっちゃい頃とか、すぐわかるタイプだったでしょ」
「……」
その一言で、箸が止まる。
ほんの一瞬だった。
「いや、楽々浦って今でもわかりやすいだろ」
神宮丸が笑って続ける。
「……確かに」
白ヶ崎も小さく同意する。
「お前たちまで言うのかよ」
軽く返しながらも、胸の奥の違和感は消えない。
結城はそのやり取りに合わせるように笑う。
けれど、その笑いはほんのわずかに遅れていた。気にしなければ気づかない程度のズレ。
それでも、一度気づいてしまうと、妙に気になってしまう。
そのとき、不意に声がかかった。
「……あ」
振り返ると、赤坂が立っていた。
いつも通りの明るい表情でこちらを見て——その動きが一瞬だけ止まる。
視線の先は、結城。
「……」
ほんの一拍。
それだけで、赤坂はすぐに笑顔を作り直した。
「なにそのメンツ〜!」
軽い調子で近づいてくる。
けれど、その足取りはほんの少しだけ慎重だった。
「一緒に食べます?」
真守が声をかける。
「んー……今日はやめとこっかな」
笑いながら、さらっと断る。
「なんでですか」
神宮丸がすぐに食いつく。
「なんとなく」
それだけだった。
結城の方を見ることはない。
距離を保ったまま、軽く手を振る。
「また今度ね」
そのまま別の席へ向かっていく。
その背中を見ながら、真守は確信していた。
赤坂は——結城を避けている。
「ふーん」
横で、結城が小さく呟く。
「先輩も一緒にいたらいいのに」
その声は軽いのに、どこか温度が違う。
「……」
何も言えなかった。
やがて、チャイムが鳴る。
昼休みの終わりを告げる音に、それぞれが席を立ち始める。
真守もトレイを持って立ち上がった。
そのときだった。
「……ねぇ」
すぐ後ろから、小さな声。
振り返ると、結城が立っていた。
さっきまでと同じような表情なのに、ほんの少しだけ違って見える。
「やっぱり」
「……?」
「まだ、思い出してないんだ」
「……何を」
思わず聞き返す。
けれど結城は、一瞬だけ間を置いてから、
「なんでもない」
また、いつもの笑顔に戻る。
「ほら、戻ろ」
それだけ言って、先に歩き出す。
その背中を見ながら、真守はその場に立ち尽くしていた。
周りのざわめきは、いつも通りだった。
何も変わっていないはずなのに。
胸の奥だけが、静かにざわつき続けていた。




