86話 俺×放課後=逃げ場がありません。
生徒会室を出たとき、廊下にはもう人の気配がほとんどなかった。
窓の外は夕焼けに染まりかけていて、校舎の中は静かすぎるくらい静かだった。
昼間のざわめきが嘘みたいに消えていて、歩く足音だけがやけに響く。
「……疲れた」
小さく吐き出す。
ここ数日、考えることが多すぎた。
生徒会に逃げ込めば楽になると思っていたのに、気づけばその中でも気を張っている。
(……帰ろ)
それ以上考えるのをやめるように、足を進めた。
昇降口を抜けて外に出る。
少しひんやりした空気が、頬に触れる。
校門へ向かう、その途中。
「——まも君」
「……」
足は止めず、聞こえなかったふりをする。
でも。
「ね、無視?」
少しだけ速い足音が後ろから近づいてくる。
「……」
そのまま歩き続ける。
関わらないと決めた。
教室で、自分で選んだはずだ。
「ひどくない?」
すぐ横に並ばれる。
視界の端に、赤い髪が揺れる。
「……」
「ねぇって」
「……」
無視。
それでも——
「まも君」
名前を呼ばれる。
その呼び方が、妙に引っかかる。
(……ダメだ)
無視しきれない。
「……ついてこないでください」
前を向いたまま、短く言う。
「えー」
軽い声。
「同じ方向だし」
「違います」
「たぶん一緒だよ?」
「……」
歩くペースを少し上げる。
それに合わせて、結城も歩く。距離は変わらない。
「……」
しつこい。
でも——
完全に無視するほど、割り切れていない自分がいる。
「ね」
結城が横から覗き込む。
「そんな嫌われることした?」
「……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……してないです」
正直に答える。
「じゃあなんで?」
「……」
理由はある。
でも、言葉にすると違う気がする。
「……なんとなくです」
結局、それしか出てこない。
「なにそれ」
少しだけ笑う。
その声が、やけに近い。
「……」
横目で一瞬だけ見る。
結城は普通に笑っていた。教室で見せたあの一瞬の表情は、どこにもない。
本当に、わからない。
「まも君ってさ」
また話しかけてくる。
「……」
無視しようとして——
「昔から——」
「……」
その言葉に、反応してしまう。
「……何ですか」
前を向いたまま、低く返す。
「いや、やっぱいいや」
あっさり引く。
「……」
また、それだ。
踏み込んできて、引く。その繰り返し。
「……」
イライラするはずなのに、完全には突き放せない。
そのとき。
「——楽々浦くん!」
後ろから、少し焦った声が飛んできた。
「……?」
振り返る。
葵だった。
走ってきたのか、少し息が上がっている。
「葵先輩……?」
「……追いついた」
安堵したように、小さく息を吐く。
そのまま真守のすぐ隣まで来る。
結城を一瞬だけ見る。それから、真守の方へ少しだけ顔を寄せる。
「……今、いい?」
小さな声。真守にだけ聞こえる距離。
「……なんですか」
「スカウトの件」
「……」
一気に現実に引き戻される。
「今がチャンスだと思うの」
葵の声が少しだけ真剣になる。
「このまま流れで話せるかもしれないし」
「……」
視線が、結城に向く。
当然だ。本人が、ここにいる。
「会長も……見てると思うから」
その一言で、空気が変わる。
「……」
真守の表情が、わずかに固まる。
見ている。どこからか。
あの人なら、あり得る。
「……」
少しだけ、拳に力が入る。
でも。
「……やりません」
はっきりと言う。
葵が一瞬だけ驚いた顔をする。
「……え?」
「今は、やらないです」
視線は前のまま。
「……」
結城が、少しだけ首をかしげているのがわかる。状況を楽しんでいるような、そんな視線。
「……楽々浦くん」
葵の声が、少しだけ揺れる。
「でも——」
「……今は無理です」
被せるように言う。
それ以上踏み込ませないように。
「……」
葵は少しだけ黙る。
それでも。
「……会長の指示だよ?」
小さく、確認するように言う。
「……」
わかっている。逆らえないことも。このまま放置すれば、どうなるかも。
「……」
でも。
「……今は」
小さく呟く。
「……決められないです」
その言葉が、すべてだった。
「……」
葵はその顔を見て、何も言わなくなる。
ただ少しだけ、心配そうな目を向ける。
「……」
その横で。
結城が、くすっと笑った。
「へぇ」
楽しそうに。
「なんか面白いことしてるじゃん」
「……」
軽い言い方。
でも、その目は。
「生徒会、かぁ」
興味を持ったように呟く。
「……」
真守は、何も返さない。
ただ。
(……どうする)
心の中で、繰り返す。
拒絶したはずなのに。関わらないと決めたはずなのに。目の前の状況は、それを許してくれない。
夕焼けが、ゆっくりと沈んでいく。
三人の影が、長く伸びる。その距離は近いままなのに。真守の中だけが、答えを出せずに揺れ続けていた。




