85話 俺×拒絶=踏み込ませません。
祇園と別れた夜から、ほんの少しだけ気持ちが軽くなっていた。
何かが解決したわけじゃない。
結城への違和感も、その正体も、何一つはっきりしていない。
それでも。
(……自分で決めればいい、か)
あのとき祇園が言った言葉が、思っていた以上に残っていた。
誰かに流されるんじゃなくて、自分で選ぶ。それだけのことなのに、今の自分にはやけに難しくて、そしてやけに大事なことに思えた。
朝の教室は、いつも通り騒がしかった。
机を引く音、誰かの笑い声、窓の外から入り込む風。
その中に混ざりながら、真守は自分の席に腰を下ろす。
「……」
無意識に、深く息を吐いた。
まだ少しだけ、胸の奥がざわついている。
それでも昨日までとは違っていた。曖昧だったものに、少しだけ輪郭ができている。
(……逃げるだけじゃダメか)
そんなことを考えていた、そのとき。
「まも君」
すぐ横から声が落ちてくる。
「……」
顔を上げると、結城がいつもの距離に立っていた。
相変わらず、近い。
それでも今日は——
「おはよ」
軽く笑うその表情を、真守は一瞬だけ正面から受け止めた。
「……おはようございます」
短く返す。
それ以上は言わない。視線も逸らさない。
ただ、必要以上に踏み込ませないように、距離だけを保つ。
「ね、今日さ」
結城が、何事もないように言葉を続ける。
「一緒に帰ろ?」
その言葉を聞いた瞬間、ほんの少しだけ時間がゆっくりになる。
昨日までなら、曖昧に流していた。
適当に理由をつけて、逃げるようにかわしていた。
でも。
「……帰りません」
はっきりと言葉にした。
自分でも驚くほど、迷いはなかった。
「……」
結城の動きが、一瞬だけ止まる。
ほんのわずか。
気づかない人間は、きっと気づかない程度の変化。それでも確かに、その目がわずかに揺れた。
「えー、なんで?」
すぐにいつもの調子に戻る。
軽く笑いながら、少しだけ首をかしげる仕草。
けれど——その“戻り方”が、どこかぎこちなかった。
「……」
そこで、真守は一歩だけ踏み込む。
逃げるのではなく、距離を引くために。
「……関わりたくないんで」
静かに、言い切る。
教室のざわめきが、ほんの一瞬だけ遠のいた気がした。
「……」
結城の表情が、止まる。
今度は、さっきよりもわかりやすく。笑顔が、少しだけ崩れる。ほんのわずかに。
「……そっか」
それでも、すぐに整え直す。
いつもの軽い声に戻る。
でも。
「……」
目だけが、戻りきっていなかった。
「まも君って、そういうとこ変わらないね」
ぽつりと落ちた言葉。
「……は?」
思わず顔を上げる。
結城は少しだけ視線を逸らしていた。
どこか遠くを見るような、そんな目。
「変わらないって」
小さく、呟くように続ける。
「昔から、そうやって嫌なことはハッキリと嫌と言うとこ」
「……」
その一言で、心臓が強く跳ねた。
理解よりも先に、体が反応する。
「……何の話ですか」
声が、少しだけ低くなる。
結城は一瞬だけ黙る。
それから、ゆっくりと顔を戻して——
「んー?」
また、笑う。さっきまでの空気を、なかったことにするみたいに。
「なんでもない」
軽く流す。
「気にしないで」
「……」
気にしないわけがない。
けれど、それ以上は踏み込めない。
踏み込んだ瞬間、何かが崩れる気がした。
「……」
前の席。
白ヶ崎が、ゆっくりと振り返る。
何も言わない。でも、その視線ははっきりとした敵意を帯びていた。
結城に向けられているのか、それとも——
「……」
わからない。
ただ、空気がまた一段重くなる。
そのとき。
「おい楽々浦」
神宮丸の声が割り込む。
「なんだよ」
「朝から空気やばくね?」
「やばくねぇ」
即答する。
「いや絶対やばいだろ」
「気のせいだ」
「へぇ〜」
面白がるように笑う。
「結城さん、意外と押すタイプ?」
「やめろ」
「楽々浦完全に押されてるし」
「押されてねぇ」
軽く言い返す。
そのやり取りで、少しだけ空気が緩む。さっきまでの張り詰めたものが、わずかにほぐれる。
それでも——
「……」
残っている。
さっきの言葉が。
そして。
「……」
結城の視線。
今度は、さっきとは違う。まっすぐではなく、どこか探るような。確かめるような目。
授業が始まる。
黒板に文字が並ぶ。教師の声が響く。
ノートを開き、ペンを動かす。いつも通りのはずなのに——
「……」
集中できない。
頭の中に残っている。
——昔から、そうやって嫌なことはハッキリと嫌って言うとこ
「……」
ペンが止まる。
(……なんで)
知らないはずだ。そんなこと。
知っているはずがない。
それなのに。
「……」
横を見る。
結城は普通に授業を受けていた。
何事もなかったかのように。
さっきの表情も、あの空気も、全部なかったことみたいに。
「……」
違う。
これはただの違和感じゃない。
もっと深い。もっと、触れちゃいけないものに近い。
「……」
小さく息を吐く。
それでも。
さっき言った言葉だけは、間違っていないと思っていた。
関わらない。距離を取る。
それが一番いい。
そう決めた。
そう、決めたはずなのに。
「……」
胸の奥で、何かが静かに揺れている。
その正体に気づかないまま、真守はただ、手を止めたまま黒板を見つめていた。




