82話 俺×不安感=拭えません。
昼休みのざわめきが、少しずつ教室から引いていく。
食堂から戻ってきた空気は、どこか妙に重かった。
何かが変わったわけじゃない。机も、椅子も、周りの連中も、いつも通りのはずなのに——どうしてか落ち着かない。
「……」
席に座りながら、無意識に息を吐く。
その理由は、考えるまでもなくはっきりしていた。
「まも君」
すぐ横から、声がする。
「……なんですか」
できるだけいつも通りに返すが、自分でも少しだけ硬いとわかる。
それに対して結城は気にした様子もなく、軽く笑った。
「お昼一緒にいてくれて、ありがとね」
「……別に」
短く返す。
それだけのやり取りなのに、妙に距離が近い。
視線を感じて、思わず横を見ると——結城がまっすぐこちらを見ていた。
逃げ場のないような視線だった。
「……」
目が合うと、彼女は少しだけ楽しそうに笑う。
その表情に、説明のつかない引っかかりが残る。
「まも君ってさ」
「はい」
「優しいよね」
「……普通です」
反射的に否定するが、結城は首を横に振る。
「普通じゃないよ」
あっさりと言い切られた。
その言い方があまりにも自然で、まるで最初からそう知っているみたいで——
「……」
言葉に詰まり、視線を逸らす。
その瞬間、コツン、と机が軽く揺れた。
顔を上げると、前の席の白ヶ崎が無言でプリントを差し出していた。
「これ」
「……あ、ありがとう」
受け取りながら顔を見ると——睨まれていた。
「……」
「……」
何も言わないままの圧だけが刺さる。理由はわかる。わかるけど、怖い。
「……なに」
「いや、なんでも」
「ならいいけど」
そう言いながらも、その視線は横——結城の方へ向けられていた。完全に警戒している。
その空気の中で、当の結城だけがまるで気にしていない様子で、また口を開く。
「ね、まも君」
「……はい」
「放課後って暇?」
「……いや、生徒会あります」
少し間を置いて答えると、「そっか」とあっさり引いた。
それが逆に、妙に引っかかる。
「じゃあまた今度だね」
「……」
軽すぎる。
さっきまであれだけ距離を詰めてきていたのに、まるで何事もなかったかのように引く。
「……」
わからない。
そのとき、背後から聞き慣れた声が割り込んできた。
「おーい楽々浦」
神宮丸だ。
「今日の授業つまんなすぎだろ」
「お前だけだろ」
「いや絶対みんな思ってるって」
勝手に盛り上がりながら笑うその軽さに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
「にしてもさ」
神宮丸がちらっと横を見る。
「結城ともうそんな距離なのかよ」
「違う」
即答する。
「いやでも“まも君”って呼ばれてたぞ?」
「……」
言葉が詰まる。
「へぇ〜」
面白がるように笑う神宮丸に、「モテ期じゃん、楽々浦」と軽くからかわれ、思わずため息が出る。
「違うって言ってるだろ」
「はいはい」
流される。
そんなやり取りの中でも、消えないものがあった。
「……」
横からの視線。
結城は、ずっとこちらを見ている。
授業が進む。時間は確実に流れているはずなのに、その違和感だけが取り残されるように、ずっとそこに残っていた。
やがて放課後のチャイムが鳴り、教室の空気が一気にほどける。椅子を引く音や話し声が重なり、いつもの日常に戻るはずなのに——
「……」
鞄を持つ手が、少しだけ速くなる。
理由はわかっている。ただ、ここから離れたいだけだ。
「まも君」
呼ばれて、思わず肩が揺れた。
振り返ると、結城がすぐそこに立っている。
「もう生徒会行くの?」
「……はい」
「少しだけお話し、しない?」
あまりにも自然に言われる。断りづらい距離だった。
それでも——
「……俺、生徒会あるんで」
少しだけ早口になる。
「そっか」
また、あっさり引いた。
「じゃあまたね」
軽く手を振る。
それだけ。
それだけなのに、なぜかその場に何かが残る。
「また明日、まも君」
その一言だけが、やけに耳に残った。
廊下を歩く足が、無意識に早くなる。
別に追われているわけじゃない。それでも、離れなければいけない気がした。
生徒会室の前に立ち、ドアノブに手をかける。
「……」
一瞬だけ止まる。
頭の中で、さっきの声が何度も繰り返される。
——まも君。
「……なんで」
小さく呟く。
そして、そのままドアを開けた。
「失礼します」
中に入ると、紙をめくる音とペンの走る音が静かに響いていた。
いつもの空気。変わらない光景。
「楽々浦くん」
葵の声が届く。
「お疲れ」
「……お疲れ様です」
それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
「どうかした?」
「……いえ」
すぐに答える。
「なんでもないです」
本当は、なんでもなくない。
でも、それをどう説明すればいいのか、自分でもわからなかった。
席に座り、書類を手に取る。集中しようとする。いつも通りに戻ろうとする。
それでも——
「……」
頭の奥に、残っている。
あの呼び方、あの距離、あの違和感。
ペンが止まる。
小さく息を吐く。そして、ふと浮かんだ疑問が消えない。
——なんで、あいつはあの呼び方で
その答えのない問いだけが、静かに残り続けていた。




