80話 俺×隣の席=心臓がうるさいです。
ホームルームが始まる前から、教室の空気はどこか落ち着かなかった。
理由は、わかっている。
「結城さん、あそこの席ね」
担任が、柔らかくそう言って指した先。
——真守の隣。
「……」
一瞬、時間が止まったような感覚が走る。
けれど、誰もそれを言葉にはしない。教室には小さなざわめきが広がっているのに、その中心だけがぽっかりと空いているような、そんな違和感があった。
その席に関する“何か”を、みんなが共有しているのに、誰も触れようとしない。
(……上高)
頭の中で名前が浮かぶ。
だが、それ以上は思考を進めないように、無意識に止めていた。
触れた瞬間、空気が壊れる気がした。
そんな、どこか歪んだ静けさの中で、結城はまったく気にした様子もなく歩いてくる。足音は小さいのに、やけに耳に残る。
そのまま隣に来て、椅子を引く。
「……よろしく」
自然な声だった。
「……あ、はい」
反射的に返す。
それ以上は続かない。
結城は無駄のない動きで座り、そのまま何事もなかったかのように前を向く——かと思えば、ふと横から視線が刺さる。
「……」
見られている。
ずっと。
(……なんでだよ)
強いわけじゃない。けれど外れない。意識を向けると、そこに確実にあるとわかる視線だった。
落ち着かない。
前を向く。
見ないようにする。
それでも、わかる。見られている。
そのとき、不意に別の気配が混じる。
左前からの圧。
白ヶ崎だ。
顔は前を向いたままなのに、空気だけで伝わってくる。明らかに機嫌が悪い。
(……いやなんでだよ)
結城の視線と、白ヶ崎の圧に挟まれている。
逃げ場がない。
そのままホームルームが始まるが、担任の声は遠く感じられ、内容はほとんど頭に入ってこなかった。時間だけが流れていく。
やがて。
「はい、じゃあ今日はここまでね」
その一言で区切られる。
空気が少しだけ緩む。
続けて、担任が軽く周囲を見渡す。
「結城さん、まだ校内わからないでしょ?誰か案内してあげてくれる?」
自然な流れだった。けれど、誰もすぐには動かない。
一瞬の間。その空白を埋めるように。
「じゃあ」
結城が、静かに手を上げた。
視線が集まる。
「まも君——」
ほんの一瞬だけ言い直す。
「……楽々浦君にお願いしたいです」
「……え?」
ざわめきが広がる。
今度は、はっきりと。
「え、知り合い?」
「もう仲良いの?」
担任も少し驚いたように笑う。
「あら、もうそんなに仲良くなったの?」
「いえ、違います!」
反射的に否定する。
けれど、その言葉は自分の耳にも軽く聞こえた。
(……まも君)
その呼び方が、頭の中に残る。
どこかで聞いたことがある。思い出そうとしたわけじゃないのに、自然と浮かんでくる。
夕焼けに染まった景色と、そこで誰かが自分を呼ぶ声。
その記憶の輪郭は曖昧で、はっきりとは掴めないのに、妙に現実味だけが残る。
(……なんで)
結城という名前。
ゆうき。
ゆーちゃん。
無理やり繋げようとしているのはわかっているのに、思考が勝手にそこへ向かっていく。
(……違う、だろ)
否定する。けれど、完全には振り切れない。
その間にも、白ヶ崎の視線は変わらず刺さっていたが、今はそれすら遠く感じていた。
「……案内、します」
我に返り、短く言う。
「ありがとう」
結城は迷いなく返した。
そのまま二人で教室を出る。
廊下に出た瞬間、空気が一変する。静けさが広がり、さっきまでのざわめきが嘘のように消える。
並んで歩く。会話はない。
距離は普通のはずなのに、なぜか妙に近く感じる。
意識してしまう。
(なんなんだよ……)
そのとき。
「ねえ」
結城が、少しだけ距離を詰める。
「さっきの」
「……はい」
「馴れ馴れしく呼んで、ごめんね」
その声は、さっきよりも柔らかかった。
「……いえ」
一拍置く。
「ただ、名前を噛んだだけですよね」
自分に言い聞かせるように言う。
「……そっか」
それ以上は踏み込んでこない。
そのまま案内を続ける。
校舎、体育館、中庭。
一通り回る頃には、少しだけ会話も増えていたが、核心には触れないままだった。
そして人通りの少ない廊下で、足を止める。
「ここで大体終わりです」
「ありがとう」
結城の声が、やけに近く感じた。
「……いえ」
短く返す。
それでも、その場から動けない。空気が終わらない。むしろ、さっきよりも濃くなっている。
「ねえ」
結城が一歩、前に出る。
距離が詰まり、逃げ場がなくなる。
「これからさ」
少しだけ間を置いて。
「まも君って呼んでいい?」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥がざわつく。
呼吸が浅くなる。
記憶が、勝手に浮かび上がる。
夕焼けの中で、自分の名前を呼ぶ声。
その声に向かって振り返ったときの感覚だけが、妙に鮮明に残っている。
(……まただ)
止めようとしても止まらない。
「……好きにしてください」
気づけば、そう答えていた。
拒否する余裕はなかった。
結城が小さく笑う。
その笑い方に、わずかな既視感を覚える。思い出せないのに、知っている気がする。
そして。
さらに距離が詰まる。
「じゃあさ」
少しだけ首を傾ける。
「うちのこと、“ゆーちゃん”って呼んでくれたら嬉しいな」
その一言で、世界が一瞬揺れた。
心臓が強く鳴る。
耳の奥で音が反響する。
ゆーちゃん。
その呼び名が、ただの言葉じゃなくなる。
頭の奥に沈んでいた何かを、無理やり引き上げるような感覚。
断片的な景色が、繋がりかけては崩れる。
誰かが隣で笑っていた気がする。小さな手が、すぐそばにあった気がする。
(……誰だ)
思い出せない。
でも、確実に“いた”。
「……呼んでくれないの?」
結城の声で、現実に戻る。
喉が詰まる。それでも。
「……ゆーちゃん」
ようやく、声に出す。
その瞬間。
結城の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
余裕のある笑顔ではなく、どこか安心したような、懐かしむような表情。
けれど、それもすぐに消える。
「うん」
軽く頷く。
「ありがと、まも君」
その呼び方が、今度はさっきよりも深く胸に残る。
違和感ではなく、もっと奥に引っかかる感覚。
思い出しかけているのに、届かない。
「じゃ、戻ろっか」
結城が先に歩き出す。何事もなかったように。
けれど。
「……」
その背中を見ながら、はっきりと思う。
(……何者なんだよ)
ただの転校生じゃない。
それだけは、確実だった。
胸のざわつきが消えないまま、真守はその後を追った。




