79話 俺×新学期=嫌な予感しかしません。
生徒会室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。
重い。
静かすぎるくらい静かで、それなのに張り詰めている。
紙をめくる音、ペンが走る音、キーボードを叩く音。誰一人無駄な動きをしていない。
全員が、仕事に没頭していた。
(……来るタイミング、間違えたか?)
一瞬だけ足が止まる。
そのとき。
「おや」
会長がこちらを見た。
いつもの、柔らかい笑顔。
「おかえり、楽々浦君。夢百合君」
その声だけが、この空間の中で浮いているようだった。
「リフレッシュはできたかな?」
「……はい」
短く返す。
葵も小さく頷いた。
「それはよかった」
満足そうに微笑む。
「では、早速頼むよ」
軽く手を差し出される。
もう戻るしかない。
席に着き、資料を手に取る。
(……多いな)
想像以上だった。だが、読み進めてすぐに違和感に気づく。
「……あれ」
「どうしたの?」
隣で葵が小さく聞く。
「これ……ほとんど終わってますよね」
「うん」
あっさりと返される。
「先にやっておいたから」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「だって」
葵が少しだけ視線を逸らす。
「楽々浦くんには、あんまり迷惑かけたくないし」
その言い方は、軽いようでいて。
どこか、引っかかる。
「……」
言葉が出ない。
「だから、残りだけお願い」
「……はい」
頷くしかなかった。
そのまま作業に入る。集中するしかない。
周りの空気に引き込まれるように、思考が研ぎ澄まされていく。
時間の感覚が薄れていく。
気づけば。
「……ふぅ」
誰かが小さく息を吐いた。
顔を上げると、外はすでに夕方だった。
「今日はここまでにしようか」
会長の一声で、全員が一斉に手を止める。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
椅子を引く音、軽い伸び。それぞれが帰る準備を始める。
そのとき。
「——少し、いいかな」
会長の声。
再び、全員の動きが止まる。
自然と視線が集まる。
「あと数日で、新学期だ」
静かに言う。
「ここからは、さらに忙しくなる」
一拍。
「気を引き締めていこう」
その声は、優しいのに。どこか、逃げ場を許さない。
「……はい」
誰かが答える。
それが合図のように、全員が頷いた。
不安が、わずかに混じる。でも、それを口に出す者はいない。
「では、解散」
その一言で、ようやく空気が解けた。
帰り道。
一人で歩く。
夕焼けが、やけに長く感じる。
(……なんか、疲れたな)
体じゃない。もっと別のところが。
家に帰ると、静かだった。
真希那はまだいない。
適当に時間を潰していると、夜遅くになって玄関が開く音がした。
「ただいまー」
「おかえり」
軽いやり取り。それ以上は特に何もない。
それでも、どこか安心する。
そのまま、夜が過ぎていった。
そして。
夏休みが、終わる。
制服に袖を通す。
見慣れたはずなのに、少しだけ違和感がある。
学校へ向かう。
教室に近づくにつれて、ざわざわとした声が聞こえてきた。
「……なんだ?」
扉を開ける。
いつもより、明らかに騒がしい。
「お、楽々浦」
神宮丸が手を振る。
「なんか今日やばいぞ」
「何が」
「転校生来るらしい」
「……へぇ」
興味がないわけじゃないが、そこまででもない。
席に向かう途中。
「真守くん」
呼ばれる。
白ヶ崎。
「……おはよう」
「おはよう」
軽く挨拶を交わす。
それだけ。でも、少しだけ空気が落ち着く。
席に座る。
ざわめきは止まらない。
女子の声が特に大きい。
「絶対可愛いって」
「いやイケメンかもよ?」
好き勝手言っている。
そのまま。
ガラッ。
扉が開き、担任が入ってくる。
「はい、席つけー」
ざわつきが少し収まる。
「今日はな、転校生が来てる」
やっぱりか、という空気。
「入れ」
短く言う。
そして。
教室の扉が、もう一度開いた。
一人の女子生徒が入ってくる。
その瞬間だった。
ざわついていた空気が、すっと静まる。
まるで、音が一瞬だけ消えたみたいに。
「……」
入ってきたのは、一人の女子生徒。
最初に目に入ったのは——髪。
光を含んだような柔らかい色。整えすぎていないのに、妙に“完成されている”シルエット。毛先が少しだけ揺れるたびに、視線が自然と引っ張られる。
制服は同じはずなのに、着こなしが違う。
少しだけ崩しているのに、だらしなさはない。むしろ、計算されたバランスみたいに見える。
(……なんだこいつ)
思わず、そう思った。
派手過ぎず。でも、地味でもない。その中間。
なのに——妙に目立つ。
視線を外そうとしても、外せない。
「……」
教室の空気が、じわじわと変わる。
女子たちは小さくざわめき、男子は言葉を失っている。
それでも、その中心にいる本人だけが、まったく揺れていない。
まっすぐ立っている。余裕がある。
“慣れている”感じ。
「自己紹介」
担任の声で、ようやく時間が動き出す。
彼女は一歩前に出る。
足音は小さいのに、やけに響いた。
そして。
「結城 紫音です。みんなよろしくね」
短い。無駄がない。
その声も、どこか落ち着いている。
場に合わせているようで、合わせていない。
そのまま。
ゆっくりと、教室を見渡す。一人一人を見るように。
流すでもなく、探すでもなく。ただ、確認するように。
——そして。
視線が、止まる。
「……」
真守と、合う。
一瞬だったはずなのに、やけに長く感じた。
次の瞬間。
ふっと、笑った。
作った笑顔じゃない。でも、自然すぎるわけでもない。
どこか——意味があるような笑い方。
(……なんだよ、それ)
理由もなく、背中がざわつく。
知らないはずなのに。
初めて会ったはずなのに。
「……」
視線を外せない。
そのまま、ほんの少しだけ首を傾げる。
まるで。
“知ってるよ”って言われたみたいに。
「……」
心臓が、一つ強く鳴った。
理由はわからない。
でも、確実に。
——何かが、引っかかった。




