78話 俺×朝風呂=目のやりどころに困ります。
目を覚ましたとき、やっと見慣れてきた実家の天井が目に入った。
(……ああ、今日の夜には帰るのか)
昨日の騒がしさが、ぼんやりと頭の中で繋がる。花火、笑い声、浴衣、そしてそのまま倒れるように寝たこと。
体を起こすと、リビングにはもう人の気配があった。
「……あ」
葵だった。
静かに、帰る支度をしている。髪は軽く整えられていて、すでに“日常”の顔に戻っているように見えた。
「起きたんだ」
「はい……おはようございます」
「おはよう」
短いやり取り。
そのまま、葵が少しだけ視線を落とす。
「シャワー、お借りしてもいい?」
「どうぞ……って、もう帰るんですか?」
「うん。無理言って二日も休んじゃったし」
さらっと言う。
「午後からは作業戻らないと」
いつもの、しっかりした口調だった。
「……」
少しだけ、間が空く。
本当なら、ここで「気をつけて」とか言って終わるはずなのに。
「……俺も戻ります」
気づけば口に出していた。
葵が、ほんの少しだけ驚いた顔をする。
「いいの?まだ休んでても」
「いや……」
言葉を探す。
「一人で戻るのもあれですし」
苦しい言い訳。
でも。
「……そっか」
小さく笑う。
「じゃあ一緒に帰ろうか」
その表情が、少しだけ柔らかかった。
「先にシャワーどうぞ」
「ありがとうございます」
急いで浴室に向かう。
扉を閉めて、ようやく一息つく。
(……なんか変な感じだな)
昨日からずっと、距離感が揺れている気がする。シャワーを浴びながら、ぼんやりと考える。
水音が、やけに大きく響く。
そのとき。
——コトッ。
小さな音。
「……?」
気のせいかと思ったが、確かに何かの気配がある。
浴室のドアの向こう。
(……嫌な予感しかしない)
反射的にシャワーを止める。
そして、迷わず湯船に飛び込んだ。
冷たい。
追い焚きしていない水が、体に一気に広がる。
「っ……!」
声を抑える。その瞬間。
ガチャ。
ドアが開いた。
「お邪魔しまーす♪」
「お邪魔します」
「はぁ!?」
思わず声が出る。
そこにいたのは——
真希那と、葵。
しかも。
「……なんで水着なんだよ!!」
「いやだって、お風呂入るし?」
悪びれもない。
「意味わかんねぇよ!!」
葵はというと、少しだけ困ったような顔をしている。
「……その、流れで」
「どんな流れだよ!?」
完全におかしい。
「まー君もいるしちょうどいいかなって」
「よくねぇよ!!」
全力で否定する。
だが。
体は湯船から出られない。
冷たい水に沈みながら、必死に体勢を保つ。
「まあまあ」
真希那が勝手に話を進める。
「背中流し合おうよ」
「なんでだよ!!」
完全にスルーされた。
そのまま二人は普通に体を洗い始める。
水音。
泡の音。
距離が、近い。
「……」
視線の置き場がない。とりあえず一点を見つめる。
「……楽々浦くん」
「見てません」
「まだ何も言ってない」
「見てません」
強く言い切る。
「……」
葵が少しだけ笑った気配がした。
その横で。
「まー君顔真っ赤じゃん」
「うるせぇ!!」
もうどうしようもない。
とりあえず追い焚きを入れる。徐々に温度が上がっていく。逃げ場は、ない。
やがて。
「はぁ、さっぱりした〜」
真希那が満足そうに言う。
「……入る?」
「入らないでくれ!!」
願いは届かなかった。
二人がそのまま湯船に入ってくる。
「狭っ」
「当たり前だろ!!」
距離が、完全に壊れる。
湯気が立ち上る。
体温が上がる。
思考が追いつかない。
「……」
葵は、少しだけ静かに隣にいる。
その距離が、やけに近い。
(無理だろこれ……)
耐えられない。
「……ちょっと熱いかも」
「いや普通だろ……」
「まー君顔やばいよ?」
「うるさい……」
視界が揺れる……意識が遠のく。
「……あ」
「ちょっと、大丈夫?」
「やばいかも……」
さすがに限界だった。そのまま、ぐらりと体が揺れる。
「出るよ!」
「うん!」
慌てて二人が湯船から上がる。
その後を追うように、真守もなんとか外に出る。そして、冷たい空気が一気に流れ込んでくる。
「……死ぬかと思った」
「大げさ」
「大げさじゃねぇよ……」
タオルで体を覆う。
「ごめんね〜」
真希那が軽く言う。全く反省していない顔。
「……はぁ」
ため息しか出ない。
着替えて、リビングに戻る。準備はもう整っていた。
「じゃあ行こうか」
葵がそう言って、玄関へ向かう。
そのとき。
「もう帰るの?」
母親が起きてきた。
「あ、はい」
「また来てね」
柔らかい声。
そして、少しだけ真守の方を見る。
「真守」
「……?」
「これから、色々思い出すかもしれないけど」
唐突だった。
「全部、無駄じゃないからね」
「……は?」
意味がわからない。
「いってらっしゃい」
それ以上は何も言わなかった。
「……行ってきます」
外に出る。
朝の空気が、少しだけ冷たい。
駅までの道。
二人で歩く。
さっきのことが頭から離れない。
「……」
「……」
沈黙。
電車に乗る。
隣に座る。
距離が、近い。
「……さっきは」
葵がぽつりと言う。
「ごめんね」
「いや……」
視線を逸らす。
「その……楽しかったので」
思わず本音が出る。
「……そっか」
小さく笑う。
それだけで、少しだけ空気が軽くなる。
電車が揺れる。
景色が流れていく。
やがて、学校の最寄り駅。
「戻ってきましたね」
「うん」
短く頷く。
寮へ荷物を置き、校門へ向かう。
そして、そのまま。
「行きますか」
「うん」
生徒会室へ。
日常が、また始まる。




