76話 俺×海辺=距離感が壊れます。
実家で過ごす時間は、思っていたよりもずっと穏やかだった。あれだけざわついていた胸の奥も、海の近い町の空気と、家の中の騒がしさに少しずつ馴染んでいく。
けれど、その一方で、確実に近づいているものもあった。
生徒会の再開だ。
帰省してから二週間。長いようで短かった時間の終わりが見え始めていた。
海で遊ぶ約束をした前日の夜、真守は自室のベッドに寝転がりながら、ぼんやりとそのことを考えていた。
窓の外からは、遠くで波が砕けるような音がかすかに聞こえる。田舎の夜は静かで、静かすぎるせいか、少し考え事を始めると止まらなくなる。
「……あと数日、か」
そう呟いた直後、スマホが震えた。画面を見る。表示されていた名前に、真守は一瞬だけ身を起こした。
「……葵先輩?」
通話ボタンを押す。耳に当てる。少しだけ間があってから、聞き慣れた声が流れ込んできた。
『もしもし、楽々浦くん?』
「は、はい」
たった二週間。たったそれだけなのに、その声が妙に懐かしく感じた。毎日のように聞いていたはずの声だ。生徒会室で、隣の席で、当たり前みたいに耳に入っていた声。
それが電話越しに届くだけで、妙に胸の奥がざわつく。
『今、大丈夫?』
「大丈夫です。どうしたんですか?」
『いや、たいしたことじゃないんだけど』
葵は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。それから、いつもより少しだけ柔らかい声で続けた。
『あと数日で生徒会の仕事、再開するでしょ? それで……どうかなって』
「どう、とは?」
『ちゃんと戻ってこられそうかってこと』
軽い確認のように聞こえるのに、その一言の奥に、別の感情が混じっている気がした。真守は一瞬だけ答えに詰まる。
「……たぶん、大丈夫です。前よりは少し」
『そっか』
短い返事。でも、その一言に少しだけ安堵が混じっていた。
『よかった』
その声を聞いて、真守の方が変に緊張した。耳が熱い。部屋の中は静かなのに、自分の心臓の音だけがうるさく感じる。
『……本当は、それだけじゃないんだけど』
「え?」
『会いたいなって思って』
一瞬、思考が止まる。
『我慢できなくて、電話しちゃった』
「……」
何も言えない。電話越しだというのに、葵が目の前にいるみたいに感じた。
夕方の生徒会室で見た、あの少し寂しそうな表情まで頭に浮かんでくる。
喉が乾く。何か返さないとと思うのに、言葉がうまくまとまらない。
「えっと、その……」
情けない声しか出ない。自分でも分かるくらい動揺していた。
電話だからまだ助かっている。これが対面だったら、たぶんもっとひどかった。
葵は小さく笑った。
『そんなに困る?』
「困るっていうか……急だったんで」
『ふふ』
笑い声が、やけに近い。電話越しなのに、距離が縮まっていく感じがした。言葉の一つ一つが、耳からじゃなく、もっと別のところに直接届いているような感覚になる。
「……先輩」
『ん?』
そこで真守は、勢いのまま口を開いていた。
「二日だけ生徒会から休みをもらって……」
『うん』
「海、来ませんか」
自分で言ってから、少し遅れて驚く。何を言ってるんだと思った。でも、口から出てしまったものは戻らない。
「その、赤坂先輩と白ヶ崎さんも来る予定で、たぶん真希ねぇもいるし……だから、変な意味じゃなくて」
言い訳みたいに続ける。
電話の向こうで、少しの沈黙があった。
『……行く』
返事は、思ったよりも早かった。
『絶対行く』
その声音だけで、テンションが上がっているのが分かる。葵のこういう分かりやすいところは珍しい。
真守は少しだけ笑ってしまう。
「電話越しでも分かるくらい嬉しそうですね」
『うるさいな!でも、嬉しいからしょうがないじゃん』
その言い方が、いつもの先輩らしい余裕より少しだけ年相応で、真守はまた変に心拍数が上がった。
「じゃあ、駅まで迎えに行きます」
『うん。待ってる』
その後も少しだけ、どうでもいい話をした。
海の話とか、天気の話とか、本当に他愛のないことばかりだったのに、電話を切る頃には部屋の空気が最初とは全然違っていた。
静かな夜なのに、胸の中だけが妙に騒がしい。通話終了の画面を見つめながら、真守はベッドに倒れ込んだ。
「……なんなんだよ」
誰に言うでもなく呟く。けれど、その声は少しだけ弾んでいた。
翌日。海辺の町の駅前は、朝から強い日差しに照らされていた。
真希那はすでに完全に夏のテンションで、待ち合わせの十分前から「まだかな、まだかな」と落ち着きがない。
「まーくん、私やっぱり水着で迎えに来るべきだったんじゃない?」
「なんでだよ」
「海の町感が出るでしょ?」
「ただの不審者だろ」
そんなやり取りをしているうちに、電車が着く。
人が降りてくる。その中に、見慣れた金髪が見えた。
「葵先輩!」
手を上げる。葵がこちらに気づいて、少しだけ笑う。その隣にもう一人、長い金髪の少女が立っていた。
「……奏先輩?」
真守が思わず言うと、葵より先に奏が軽く顎を上げた。
「来た」
「いや、なんでですか」
「姉妹だから」
「説明になってないんですけど」
葵が少し気まずそうに肩をすくめる。
「一応、止めたんだけど」
「妹愛好家なら当たり前」
奏が真顔で言う。
「いや、自分で言うんですね」
「問題ある?」
「ありますよ色々」
真希那がそこに割って入る。
「へぇ〜、双子って本当にくっついてくるんだ」
「あんたにだけは言われたくない」
奏がぴしゃりと返す。
「え、なんで?」
「重度の弟愛好家でキモいから」
「久しぶりの再会でひどくない!?」
「うるさいっ!!」
「ぐっ……!」
駅前からもう騒がしい。真守は一気に疲れた顔になったが、それでも葵が隣にいることが少しだけ嬉しい自分もいた。
海に着くと、先に来ていた二人の姿が目に入った。砂浜の白さと海の青さの中で、赤坂と白ヶ崎はそれだけで風景の一部みたいに映える。
「おーい、真守ー!!」
まず目に入ったのは赤坂だった。
普段は元気いっぱいで小動物みたいな印象の彼女が、水着姿になると妙に危うい。
小柄な体つきなのに、露出した肩や細い腰のラインがやけに目を引いた。太陽の光を受けて、茶色いボブがいつもより柔らかく見える。
本人はそんな周囲の視線なんてまるで気にせず、こっちに向かって大きく手を振っていた。
「もう、遅いわよ!」
一方の白ヶ崎は、まるで別の意味で目を奪われた。
学校で見る彼女は、どこか近寄りがたい綺麗さがある。けれど今、波打ち際に立つその姿には、普段よりもずっと素直な“女の子らしさ”があった。
白い肌に映える水着の色、少しだけ風に揺れる髪、涼しげな目元。あまりにも絵になりすぎていて、真守は一瞬まともに見られなかった。
「……」
「真守?」
赤坂が不思議そうに首をかしげる。
「いや、なんでもないです」
「嘘だー」
白ヶ崎はそんな真守の反応を見て、少しだけ口元を緩めたあと、すぐにそっぽを向く。
「……ジロジロ見ないでよね」
「見てないって」
「見てたわよ」
「ちょっとだけだ!」
もう言ってることがダメだった。
そのあと、更衣室から三人が出てきた時には、真守の精神はさらに追い込まれることになる。
「楽々浦くん……どうかな?」
葵は普段の凛とした雰囲気を残したまま、それでも水着姿になると一気に距離感が壊れる。
露出が増えたことで、今まで制服が作っていた壁が消えてしまったみたいだった。
「葵をジロジロ見たら殺すから」
奏は葵と同じ顔立ちなのに、髪を下ろした柔らかさのせいか、もっと女の子らしい印象が前に出ている。
並んでいるだけで双子だと分かるのに、見え方は全然違う。
「ひゃっほーい!海だー!!」
そして真希那は真希那で、いつも通り無駄に堂々としていて、妙な色気すらあったので、真守はもう深く考えるのをやめた。
学校で毎日関わっている相手なのに、制服を離れるだけでこんなにも違って見えるのかと、真守は変に実感してしまう。
自分は普段、こんなに綺麗で、可愛くて、騒がしい人たちと一緒にいたのか。
今さらのようにそんなことを考えて、少しだけおかしくなった。
ただ、海に入れば、そんな考えはすぐに吹き飛んだ。
赤坂が真っ先に水をかけてきて、白ヶ崎が本気で怒って、葵が呆れながらも笑っている。
奏は最初は乗り気じゃなさそうだったのに、気づけばちゃんと混ざっていた。
真希那は終始テンションが高く、誰彼構わず巻き込もうとする。
ビーチバレーでは赤坂が意外と機敏で、白ヶ崎が無駄に負けず嫌いで、葵が静かにうまく、奏が淡々と強かった。
太陽の光は強く、砂は熱く、海風は気持ちいい。時間が進むほどに、みんなの笑い声も自然になっていった。
学校でも、生徒会でも、家でもない場所。ここではただ、一緒に遊んでいるだけでよかった。
夕方になると、海と空の境目が少しずつ赤く染まり始めた。波がオレンジ色の光を細かく砕いて、砂浜までその色を運んでくる。
昼の騒がしさが少し落ち着いて、空気がやわらかくなる。
そんな時間の中で、真守はふと座り込んだまま眠ってしまった。
そして、夢を見る。懐かしさを感じる夢だった。
"まも君"
誰かが呼んでいる。
その声は、知っているはずなのに顔が浮かばない。真守は声のする方へ歩いていく。柔らかい光の中に、ひとりの子が立っていた。
写真で見た、あの子だと分かった。小柄で、静かで、でも確かにこちらを見ている。
「……きみは誰?」
手を伸ばす。
聞こうとした、その瞬間——目が覚めた。
視界が現実に戻る。夕日で赤く染まった空。潮の匂い。そして、自分の手の位置。
「……え」
固まる。
目の前で、葵が顔を真っ赤にしていた。
どうやら起こそうと近づいてきたところを、寝ぼけた真守の手が胸元に触れてしまっていたらしい。
「……っ!」
葵が勢いよく離れる。
「ち、ちが……!」
真守も一気に意識が覚醒した。次の瞬間には、砂浜に勢いよく頭を下げていた。
「すみませんでした!!」
全力の土下座だった。
「本当にすみません!!」
「……」
少しの沈黙。周りの空気も止まっている。
「……じゃあ」
葵が小さく咳払いして、まだ顔を赤くしたまま言った。
「触った責任、取ってよね」
少しだけふざけた言い方だった。
たぶん本気で怒っているわけじゃない。でも、その一言で真守の顔はさらに真っ赤になり、白ヶ崎が「はあ!?」と反応し、赤坂が面白がって笑い、奏は殺意がこもったタメ息をついた。
結局、その場はそれでなんとか収まった。だが、騒ぎはそれで終わらなかった。
葵と奏が急遽来たせいで、今夜の宿がないという話になったのだ。
「じゃあ、うち泊まります〜?」
真希那が軽いノリで言ったのがまずかった。
「え、いいんですか?」
葵が食いつく。
「別に部屋はあるし〜」
「……いいな」
白ヶ崎がぽつりと言う。
「え?」
「私も泊まりたい」
「なんでだよ!?」
即ツッコミ。
「だってずるいじゃない」
「どこがだよ!」
「じゃあ私も泊まる!」
赤坂まで乗ってくる。
「なんでそうなるんですか!?」
「楽しそうだし」
「軽っ!」
奏は奏で当然のように葵の隣に立っている。
「私は最初からそのつもり」
「なんでだよ!!」
ツッコミが追いつかない。
真希那は面白がっているし、白ヶ崎は妙に本気だし、赤坂は乗っかるし、葵は困りながらも完全に拒否はしていない。
結局、真守の意思だけがきれいに置き去りにされたまま、なぜか全員で実家に泊まる流れが完成してしまった。
「……なんでこうなるんだよ」
沈みかけた夕陽の前で、真守は頭を抱えた。
でも、その騒がしさの中にいると、不思議と悪い気はしなかった。
海と夕暮れと、笑い声。
その全部が混ざり合った一日の終わりに、また新しい騒動の予感だけが、楽しげに膨らんでいた。




