75話 俺×回復=少しだけ前を向きます。
実家に帰ってから、一週間が経った。
真守はベッドに横になったまま、ぼんやりと天井を見ていた。カーテンの隙間から差し込む光が、ゆっくりと部屋の中を照らしている。時間の感覚は曖昧で、朝なのか昼なのかもはっきりしない。ただ、何もしていない時間だけが静かに積み重なっていた。
あの夜から、外に出ていない。
出る理由がなかったわけじゃない。ただ、足が向かなかった。あの公園で感じたものを、もう一度味わうかもしれないと思うと、無意識に体が拒否していた。
思い出したわけじゃない。けれど確実に“触れてしまった”感覚だけが残っている。
(……めんどくせぇな)
心の中で呟く。怖いわけではない。ただ、またあの状態になるかもしれないと思うと、一歩が踏み出せなくなる。
中学の頃は、こんなことはなかった。思い出そうともしなかったし、触れようともしなかった。だから何も起きなかった。それでよかったはずなのに、今回は自分から踏み込んでしまっている。
アルバムを見て、話を聞いて、思い出そうとしている。
(……戻れねぇな)
小さく息を吐いたときだった。
「まーくん!!」
ドアが勢いよく開く。
「いい加減出てきなさい!!」
「……うるせぇ」
「一週間も引きこもるとかダメでしょ!」
「引きこもってねぇよ」
「引きこもりです!」
即断だった。
「外行くよ!」
「いや——」
「行くの!!」
強引に話を切られる。
数分後、玄関で靴を履きながら、真守は呆れたように言った。
「なんで水着持ってんだよ」
「いつでも海行けるように!」
「今から行かねぇだろ」
「気分大事でしょ!」
「その気分がおかしい」
軽く言い合いながらも、結局外に出ることになった。
外の空気は思ったより軽かった。たった一週間ぶりなのに、少しだけ違って感じる。
歩き出すと、隣に真希那がいる。それでも、いつもより少しだけ距離を取っていた。無意識に距離を作っている自分に気づきながら、何も言わない。
真希那も、それを分かっているのか、無理に詰めてこない。ただ、その代わりに軽い会話を投げてくる。
「ねぇ、浮き輪どれにする?」
「いらねぇよ」
「形から入るのが大事なの!」
「泳げるからいらない」
「そういう問題じゃない!」
そんなやり取りをしながら店に入る。カラフルな商品が並び、どこか夏の匂いがした。
浮き輪やゴーグルを手に取りながら、どうでもいい会話を続けているうちに、胸の奥にあった重さが少しだけ薄れていくのを感じた。
帰り道、袋を持って歩く。空は少し傾き始めていて、昼よりも柔らかい風が吹いている。
そして、あの公園が見えた。
真守の足が、わずかに止まる。
意識していたわけじゃない。けれど気づけば、真希那のすぐ隣に寄っていた。
「……え」
真希那が一瞬だけ固まる。しかしすぐに状況を理解し、何も言わずに歩幅を合わせる。
真守は視線を逸らしたまま、そっと真希那の袖を掴んだ。
弱い力だった。それでも確かに、そこに頼っている。
(……やばい)
真希那の心臓が一気に跳ねる。顔には出さないが、内心は完全に崩壊していた。
「……大丈夫」
小さく呟きながら、守るように少しだけ前に出る。
そのまま、公園の前を通り過ぎる。何も起きない。ただ静かに、時間だけが流れていく。
やがて真守の呼吸が落ち着いていく。手の力が抜け、そっと袖から離れた。
「……あ」
その瞬間、真希那の中で何かが崩れた。
「なんで離すの!?」
「戻ったから」
「戻るな!!」
「意味わかんねぇよ」
「もうちょっと掴んでてよ!!」
勢いのまま抱きつく。
「うおっ!?」
「今のはチャンスだったのに!」
「何のだよ!」
「お姉ちゃん的なやつ!」
「雑すぎる」
なんとか引き剥がしながら歩き出す。
家に着く頃には、さっきまでの重さはかなり薄れていた。
玄関を開け、靴を脱ぐ。
「……疲れた」
「楽しかったでしょ?」
「まあな」
素直に答える。
部屋に戻り、ベッドに座る。買ってきた袋が視界に入る。
スマホの通知がきて画面を見る。
赤坂からの急な連絡。
『真守!せっかく夏休み貰えたんだから一緒に海に行くよ!咲音ちゃんもいるからよろしく!』
半ば強制的な文だった。
たまたま、赤坂の実家は真守の隣町だったため、真希那が事前に打ち合わせしていたらしい。その隣町は海がとても近く、遊ぶにはとても環境の良いところだった。
白ヶ崎とも連絡をとっており、真守の知らないところで話が進んでいた。
いつもなら気が進まないはずだが、"せっかくの夏休み"その言葉に少し流される。
気分転換は大事だと、自分に言い聞かせる。そう思った途端に面倒臭い感情より、楽しみな感情が勝ってきた。
海。赤坂。白ヶ崎。
頭の中に、これからの光景が浮かぶ。
(……楽しみだな)
自然とそう思えた。
さっきまでの重たい感覚とは違う、少しだけ軽い気持ち。
まだ全部は整理できていない。それでも、今はそれでいいと思えた。
「……まあ、いっか」
小さく呟き、そのまま横になる。
静かな部屋の中で、ほんの少しだけ前を向いた自分を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。




