74話 俺×残響=まだ消えません。
「……ゆーちゃん、か」
ベッドに横になったまま、真守は小さく呟いた。
天井を見上げる。見慣れているはずの実家の天井なのに、どこか距離があるように感じる。さっきまで見ていたアルバムの光景が、断片的に頭の中を行き来していた。
道場。
公園。
笑っていた自分。
そして——顔の見えない誰か。
名前だけが、妙に残る。
それなのに、そこから先が何も繋がらない。思い出そうとしても、手応えのない感覚だけが残る。
「……分かんねぇな」
小さく息を吐いた。
そもそも真守は、自分の記憶が曖昧なことを知っている。交通事故のことも、断片的ではあるが覚えている。だからこそ——アルバムを見るのは、本当は気が進まなかった。
触れたくないものだった。
中学の頃は、なおさらだった。
過去に踏み込まない。思い出さない。関わらない。
それだけを徹底していた。
理由ははっきりしない。ただ、そこに触れれば何かが崩れる気がしていた。だから距離を取った。人とも、出来事とも、自分の過去とも。
守るべきは、自分の平穏。
それだけでよかった。
「……」
視線を少しだけ横に動かす。
それでも今は、自分から踏み込んでいる。
アルバムを見て、話を聞いて、思い出そうとしている。
戻るには、中途半端すぎる。
そう思ったときだった。
「まーくん、ご飯できたよー」
下から声が聞こえる。
いつも通りの軽い調子。
「今行く」
短く返して、体を起こした。
リビングに降りると、温かい匂いが広がっていた。
テーブルの上には、いくつもの料理が並んでいる。煮物に焼き魚、味噌汁。どれも見慣れたものばかりなのに、どこか懐かしく感じる。
「久しぶりでしょ?」
母親が穏やかに笑う。
「……うん」
自然と頷いていた。
席に座る。
「いただきます」
「いただきまーす」
「いただきます……」
三人分の声が重なる。
箸を動かす。
一口、口に運ぶ。
「……うまい」
思わず漏れた。
「でしょ?」
母親が少し嬉しそうに笑う。
「やっぱりお母さんの味は違うよね〜」
真希那も楽しそうに言う。
「真希ねぇも普通にうまいだろ」
「ちゃんと教わってるからね」
「だから似てるのか」
「そういうこと」
軽い会話が続く。
特別なことは何もない、ただの食事。それなのに、その時間がやけに心地よかった。
食事を終え、真守は軽く息を吐く。
「まーくん」
「ん?」
「散歩、行かない?」
真希那が何気なく言った。
「散歩?」
「夜の空気、気持ちいいよ」
少しだけ考える。
断る理由はない。
「……いいけど」
「やった」
すぐに立ち上がる。
「ただし」
真守が言う。
「くっつくなよ」
「えー」
「ダメ」
「腕くらい——」
「ダメ」
「ケチ」
「普通だ」
そんなやり取りをしながら、外に出た。
夜の空気は、少しひんやりしていた。
昼の熱がゆっくり抜けていく時間。街灯は少なく、道は暗い。でも、その静けさが落ち着く。
虫の音が遠くで鳴いている。
ゆっくりと歩く。靴音が静かに響く。
特に目的もなく、ただ歩く。言葉は少ない。
それでも気まずさはなかった。
しばらく歩いた先で、真守の足が止まる。
視線の先。
古い公園。
ブランコとベンチ、錆びた遊具。
「……」
その瞬間だった。
視界が、わずかに揺れる。
夕焼け。
ブランコ。
誰かの声。
そして——
エンジン音。
速い。
近い。
「……っ」
呼吸が乱れる。胸が締め付けられる。
頭の奥が、じんわりと痛む。
「はっ……」
その場に膝をつく。
呼吸がうまくできない。
「まーくん!?」
真希那の声が遠く聞こえる。
肩を掴まれる感覚だけが、かろうじて現実に繋ぎ止めていた。
しばらくして、少しずつ呼吸が戻る。
「……ごめん」
なんとか声を出す。
ベンチに座る。
夜風が少し冷たい。
(……なんだよ、これ)
思い出したわけじゃない。
でも、確実に“近づいている”。
中学の頃は、こんなことはなかった。触れなかったから。踏み込まなかったから。
でも今は違う。
自分から近づいている。だから、こうなる。
(……面倒だな)
そう思うのに。嫌だとは思わなかった。
「……大丈夫?」
隣で真希那が覗き込む。
「……大丈夫」
短く答える。
完全じゃない。でも、動ける。
少しだけ休んでから、立ち上がる。
「……帰るか」
「うん」
帰り道は、少しだけ静かだった。
家に着き、靴を脱ぐ。
リビングの灯りが、やけに安心する。
「おやすみ」
「おやすみ」
それだけ交わして、部屋に戻る。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
ゆーちゃん。
事故。
空手。
バラバラだったものが、少しずつ繋がり始めている。でも、まだはっきりしない。
「……」
目を閉じる。
静かな夜の中で。
その残響だけが、ゆっくりと残っていた。




