73話 俺×過去=思い出したくありません。
「……あ」
ページをめくる手が、ふと止まった。
そこに写っていたのは——
道場だった。
畳の上。白い道着。
整列する子どもたちの中に、小さな自分がいる。
「これ……」
写真の中の真守は、今とはまるで別人だった。
背筋はまっすぐで、目に迷いがない。
幼いはずなのに、芯が通っているような子だった。
「空手よ」
母親が静かに言う。
「結構頑張ってたのよ。大会でもいいところまで行ってたし」
「……へぇ」
自分のことなのに、どこか他人事みたいだった。
でも——
その姿には、確かに“自分”がいる気がした。
視線を少し横にずらす。
「……」
そこに、もう一人いた。
同じくらいの年頃。
同じ道着を着て、真守のすぐ隣に立っている。
けれど——
前髪が長く、顔が見えない。俯き気味で、性別すら分からない。
「……誰だ、これ」
小さく呟く。
「……」
母親は少しだけ考えてから、
「道場の子じゃない?」
と、曖昧に笑った。
「……」
納得はできない。でも、確証もない。
真守はそのまま写真に視線を戻した。
アルバムの中の時間は、ゆっくりと遡っていく。
その頃の真守は、今とは真逆の性格だった。
明るくて、よく笑って、誰とでもすぐに打ち解ける。
中心にいることが自然な、そんな子ども。
警察官の父親に憧れていた。強くなりたいと思っていた。誰かを守れる人間になりたいと、本気で思っていた。
そのために始めたのが、空手だった。
毎日通っていた道場。
何度も転んで、何度も負けて、それでも立ち上がる。
そんな日々の中で——
あの子と出会った。
最初は、ただ目についただけだった。
いつも一人でいる子。
話しかけても、ほとんど返事をしない。目も合わせない。
学校でも、外でも、ずっと一人。
"なんで一人なんだろう"
ただそれだけの興味。
だから、何度も話しかけた。
無視されても、気にせず続けた。半ば無理やり、外に連れ出したこともあった。
最初は嫌がっていた。でも、少しずつ。ほんの少しずつ。距離が縮まっていった。
ある日、真守はその子を道場に連れていった。
「一緒にやろうぜ」
その一言だけだった。
断られると思っていた。
でも——
その子は、小さく頷いた。
それがきっかけだった。
道場に並ぶ二人。
同じ動きを繰り返す。同じように怒られて、同じように褒められる。
最初はぎこちなかった。
でも、いつの間にか——
隣にいるのが当たり前になっていた。
写真の中の二人は、いつも一緒だった。
道着姿で並んで立っている。
大会の後、少しだけ笑っている。表情ははっきり見えない。
それでも。
その距離だけは、はっきりと分かる。
「……」
真守は写真を見つめたまま、しばらく動かなかった。
そしてページをめくる。
アルバムは、少しずつ終わりに近づいていく。
同時に——
写真は減っていく。空白が増える。
「……母さん」
真守はアルバムを閉じた。
「なんで後半、こんなに写真少ないの?」
その問いに、母親の手がわずかに止まる。
「……そうね」
視線を落とす。
「ちゃんと話してなかったわね」
その声は、少しだけ重かった。
隣で、真希那も黙る。
「……真守はね」
母親は静かに続ける。
「小学校の終わり頃に、交通事故にあってるの」
「……うん」
真守は、頷いた。
知っている。この話自体は、初めてじゃない。
「覚えてるよ」
そう言った瞬間——
頭の奥に、鈍い痛みが走る。
「……っ」
わずかに眉を寄せる。
完全には思い出せない。
でも。
断片は、確実に残っている。
⸻
夕方の公園だった。
空は少し赤くなっていて、風は穏やかで。
いつもと同じ時間。いつもと同じ場所。
隣には、あの子がいた。
ブランコが、ゆっくり揺れていた。
何を話していたかは覚えていない。
でも——
笑っていた。
それだけは、はっきりしている。
そのとき、音がした。
遠くから不自然な音。エンジン音。速い。
明らかに、速すぎる。
視界の端に、車が入る。
直線。まっすぐ。減速しない。
「……あ」
その瞬間、理解した。
狙われている。
理由は分からない。
でも——
間違いなく、あの子に向かっている。
考えるより先に、体が動いていた。
「危ない——」
声が出たかどうかも分からない。
ただ、腕を伸ばして。
その子を突き飛ばす。
次の瞬間。
衝撃。
全身が、弾かれる。骨が軋む音。
息が、一瞬で抜ける。
視界が揺れる。
空と地面が入れ替わる。
何かが、折れる感覚。
熱い。
痛い。
でも——
その感覚すら、すぐに遠のいていく。
最後に見えたのは。倒れ込んだ視界の端で。
こちらを見ている、あの子の姿。
顔は、見えない。
でも——
確かに、そこにいた。
「……」
記憶が、そこで途切れる。
その先が、ない。
繋がらない。
「……」
真守は、しばらく動かなかった。
胸の奥に残っているのは、断片だけ。
衝撃。痛み。恐怖。
そして——
“守れたのかどうか”が、分からないまま終わっている感覚。
「……」
ゆっくりと息を吐く。
あの頃の自分は、もっと単純だった。
強くなりたいとか、守りたいとか、迷いもなく、まっすぐに動けていた。
でも、今は違う。
一歩踏み出す前に考える。関わる前に距離を測る。誰かを助けることすら、“本当に正しいのか”と一瞬迷う。
(……ああ)
ぼんやりと理解する。
あの事故で。
何かが、変わったんだ。
記憶が抜け落ちたせいなのか。
それとも——
あの瞬間に感じた“何か”が、残り続けているのか。
はっきりとは分からない。
でも。
今の自分は、あの頃の自分とは違う。
「そのときの影響で、一部の記憶が曖昧になってるの」
母親の声で、現実に引き戻される。
「……」
真守はゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
覚えている。
でも、欠けている。
その境界が、はっきりしない。
「それと、関係あるかは分からないけど、お父さんはね」
母親が続ける。
「もともとは交番勤務だったんだけど」
「……うん」
「その事故をきっかけに、刑事課へ異動したのよ」
「……」
「ただの事故じゃないって、ずっと思ってたから」
その言葉に、空気が少しだけ重くなる。
「今も、心のどこかで追ってるわ」
「……そっか」
小さく呟く。
「……母さん」
少しだけ間を置いて、聞く。
「そういば、その子の名前って」
「……」
母親は考える。
「なんだっけ〜……えっと……ああ、そうそう」
思い出したように顔を上げる。
「“ゆーちゃん”って呼んでた気がするわ」
「……ゆーちゃん?」
「本名は……出てこないわね」
「……」
真守は考える。
でも。何も浮かばない。
ただ。
胸の奥に、引っかかりだけが残る。
思い出せそうで。
思い出せない。
その距離だけが、やけに遠く感じた。




