72話 俺×アルバム=思い出せません。
「うわー、懐かしい匂い」
リビングに入った瞬間、真希那が小さく息を吸い込んだ。
その声は、いつもの軽さとは違って、どこか慎重だった。
「……そんな変わってないだろ」
真守は靴を脱ぎながら軽く返す。
木の匂い。
少し古い家具。
窓から入る風。
全部、知っているはずの空間。
それなのに、どこか遠い。
「……」
真希那はしばらくその場に立ち尽くしていた。
部屋を見ている。けれど、その視線は“今”じゃない。
もっと前を見ているようだった。
「ねえ、これ」
少しして、真希那が棚の奥から箱を引っ張り出す。
「勝手に触るなよ」
「いいじゃん」
蓋を開ける。
中には、何冊かのアルバム。
「あー、それ」
母親がキッチンから顔を出す。
「昔の写真よ」
「……へぇ」
真希那は一冊手に取る。
少しだけ、手が止まる。
それから、ゆっくりと開いた。
パラ、とページがめくられる。
そこに写っていたのは——
まだ小さな真守。
おしゃぶりを咥えて、誰かにしがみつくように笑っている。
「……」
真希那の手が、止まった。
「……」
何も言わない。
ページをめくることもなく、その一枚を見続けている。
「……どうした」
真守が声をかける。
「……」
少しだけ間があって。
「……ごめん」
落ちるような声だった。
「……え?」
思わず聞き返す。
「なんで?」
「……」
真希那は視線を写真から外さない。
「……昔のこと」
それだけ。
でも、それで十分だった。
「……あー」
真守は軽く息を吐く。
「いいよ、別に」
あっさりと言う。
「……え?」
真希那が顔を上げる。
「気にしてない」
本当に、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「……でも」
少しだけ肩をすくめる。
「別に今さら怒るようなことでもないし」
「……」
「それに」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「こうして普通に話せてるなら、それでいいだろ」
「……」
真希那は何も言わなかった。
ただ、目を細める。
少しだけ、安心したように。
「……ありがと」
「どういたしまして」
軽く返す。
その空気が、少しだけ柔らかくなる。
さらにページをめくる。
幼い頃の写真。
少しずつ、成長していく真守。
真希那も、少しずつ表情が変わっていく。
最初は静かに見ていたのに、
「ちょ、これやばくない?」
「何がだよ」
「髪型!」
「うるさい」
「黒歴史じゃん」
「真希ねぇもだろ」
「どれ!?」
「全部」
「ひど!」
だんだんと、いつもの調子に戻っていく。
軽口が増える。笑いが混じる。
さっきまでの空気が、少しずつほぐれていった。
そのとき。
「……ん?」
真守の手が止まる。
一枚の写真。
そこには、小学生くらいの真守。
その隣——
本来なら誰かがいるはずの場所が、不自然に切られていた。
「……なんだこれ」
「え?」
真希那が覗き込む。
「ここ、誰かいたよな」
「……さあ?」
少しだけ間がある。
「いや、いるだろ」
「気のせいじゃない?」
「こんな綺麗に切るか普通」
写真の端は、妙に整っていた。
明らかに、人為的な切り方。
「……」
母親に視線を向けようとする。
「母さん——」
「待って!」
真希那が慌てて止める。
「なんだよ」
「別にいいじゃん、昔のだし」
「よくねぇよ」
そのやり取りを見ていた母親が、ふっと笑う。
「それね」
「……?」
「真希那が切ったのよ」
「は?」
空気が止まる。
「……」
真守はゆっくりと振り返る。
「……マジ?」
「……うん、ごめん」
今度は軽い。
さっきとは違う謝り方。
「なんでだよ」
「いやー」
少し笑いながら頭をかく。
「独占欲?」
「開き直るな」
呆れる。
「でもさ!」
「まだあるのか」
「小さい頃だし!」
「関係ねぇよ」
「ごめんって!」
軽い謝罪。
本気で悪いとは思っていない感じ。
「……はぁ」
真守はため息をつく。
「……もったいな」
ぽつりと漏れる。
「ほんとに」
ページをめくる。
小学生の頃の写真。
その中で。
「……これ」
一枚だけ、異様に切り取られている写真。
中央部分が、ほぼ丸ごとない。
残っているのは背景だけ。
病院の一室。
「小3……?」
「そうね」
母親が頷く。
「その頃ね、真守が怪我して病院に通ってたのよ」
少しだけ声が柔らかくなる。
「その時に、仲良くしてた子がいたの」
「……」
視線が写真に落ちる。
「女の子?」
「ええ」
「……一人?」
「そう」
「その子と、いつも二人で一緒にいたわ」
「……」
胸の奥が、わずかに揺れる。
「どんな子だった?」
自然と聞いていた。
「可愛い子だったわよ」
母親は少し微笑む。
「真守にだけ、笑顔をよく見せて」
「……」
「真守の隣に、いつもいた」
その言葉だけが、妙に残る。
「……真希ねぇは?」
視線を向ける。
「覚えてる?」
「え、私?」
少しだけ考えて、
「……綺麗な子だったよ」
「綺麗?」
「うん」
少しだけ目を細める。
「今で言うと……咲音ちゃんに似てる感じ」
「……は?」
思わず声が出る。
「マジで?」
「うん」
あっさり頷く。
「じゃあなんで切ったんだよ!!」
「ごめんって!!」
即ツッコミ。
「それ一番残すやつだろ!!」
「その時はわかんなかったの!」
「今でもわかってないだろ!」
「ごめんってば!」
半分ふざけながら謝る。
「……はぁ」
呆れる。
「……ほんとにもったいない」
小さく呟く。
黙々とページをめくる。
さらに進む。
「……あれ」
違和感。
「……少ないな」
小学校六年。
明らかに写真が少ない。数ページ分、ほとんど空白。
「……」
指が止まる。
さっきまでの軽さが、少しだけ消えた。
「母さん、これ」
「……」
母親は一瞬だけ視線を落とす。
でも、すぐに戻す。
「その頃は、あんまり撮ってなかったのよ」
「……そうか」
理由はなんとなく知っている。
でも、それ以上は聞けなかった。
窓から風が入る。カーテンが揺れる。
静かな夏の音。
「……」
真守はアルバムを見つめたまま、動かなかった。
写真の中にあるはずの“何か”。それが、確実に抜け落ちている。
そして——
その抜け落ちた部分だけが、やけに引っかかる。
思い出せない。
でも。
確かに、そこに誰かがいた。
その感覚だけが、静かに残り続けていた。




