71話 俺×帰省=どこかおかしいです。
「よし、準備できた!」
玄関に響く、無駄に元気な声。
「……いや、待て」
真守は靴を履きながら、その声の主を見て固まった。
「なんでその格好なんだよ」
真希那は満面の笑みで立っていた。
大きめのトートバッグに、浮き輪。
足元はサンダル。そして——
「海でしょ?」
「まだ着いてねぇよ」
即答だった。
「でももうすぐじゃん!」
「“もうすぐ”の意味がおかしいんだよ」
テンションが先走っている。
「ほら行こ!」
玄関の扉に手をかける。
「待て」
真守は反射的に腕を掴んだ。
「……なに?」
振り返る真希那。
その格好をもう一度確認する。
羽織っているパーカーの下。明らかに、布のラインがおかしい。
「……真希ねぇ、その下」
「うん?」
「水着だろ」
「そうだけど?」
「そのまま外出るな!!」
本気のツッコミだった。
「えー」
「えーじゃねぇよ!!」
「上に着てるし」
「隠れてねぇんだよ!!」
真守は額を押さえる。
「電車乗るんだぞ?」
「……あ」
一拍。
「……たしかに」
「遅いんだよ気づくのが」
結局、着替え直し。
その間も真希那はずっと不満そうにしていた。
家を出る。
じわっとした空気が肌にまとわりつく。
夏特有の、少し重たい風。
アスファルトの熱気が、足元から伝わってくる。
「うわー、暑っ」
「当たり前だろ」
「でもさ!」
真希那はくるっと振り返る。
「これから海だよ?」
「だからまだ着かないって」
「気持ち的にはもう海!」
「真希ねぇはずっと頭の中が夏だな」
そんなやり取りをしながら、駅へ向かう。
普段と変わらない道。
だけど今日は、少しだけ違って見えた。
そして、電車に乗る。
窓際の席。
座った瞬間、少しだけ力が抜けた。
「ふー」
「まだ疲れてるの?」
「別に」
「夏休みなのに」
「生徒会のせいだな」
「……そっか」
真希那はそれ以上は何も言わなかった。
電車が動き出す。
ゆっくりと、景色が流れていく。ビル群が遠ざかる。代わりに、低い建物と、広がる空。
少しずつ、色が変わっていく。
「……」
窓の外を眺める。
見慣れたはずの風景が目に入る。
何度も通ったはずの道。
それなのに——
どこか、違う。
(……なんだろうな)
違和感というほどでもない。でも、しっくりこない。電車の揺れに合わせて、視界が揺れる。
その中で。
ふと。
景色が、重なる。
——砂浜。
白く、強い光。
——誰かの声。
遠くから呼ばれるような。
——笑い声。
はしゃぐような、弾ける音。
「……」
瞬きする。現実に戻る。
窓の外には、ただの田舎の風景。
緑、家、電柱。
それだけ。
(……なんだ、今の)
思い出そうとする。
でも、掴めない。
「ねえ」
真希那が身を乗り出す。
「見て」
その指の先。
遠くに、青が広がっていた。
海。
水平線が、空と溶けている。
「……」
胸の奥が、わずかにざわつく。
さっきの映像と、重なる。
「綺麗でしょ?」
「……ああ」
短く答える。
でも、視線は離れなかった。
波の形。光の反射。
その一つ一つに、どこか引っかかる。
「……」
記憶の奥を、何かがなぞる。
けれど。
やっぱり、思い出せない。
電車を降りる。
ホームに立った瞬間、空気が変わる。
潮の匂い、少し湿った風。肌にまとわりつく、夏の気配。
「うわー!」
真希那が大きく伸びをする。
「懐かしい!」
「……」
真守もゆっくりと息を吸う。
肺の奥まで、空気が入る。
確かに、ここは知っている場所だ。
それでも——
「……」
胸の奥に残る違和感は、消えない。
歩き出す。
駅から続く道。見慣れたはずの景色。
古い商店。
閉まったシャッター。
少し傾いた看板。
全部、知っている。
なのに。その上に、別の景色が重なる。
もっと明るい色。
もっと賑やかな音。
「……」
一瞬だけ、足が止まりそうになる。
でも、すぐに歩き出す。
真希那が先を歩いている。
その背中を追いながら、視線だけが揺れる。
家に着き、玄関の前で立ち止まる。
「着いたー!」
真希那が先に言う。
「……そうだな」
鍵を取り出す。
その瞬間。
ガチャ。
内側から開いた。
「真守ー!」
勢いよく飛び出してきたのは母親だった。
「久しぶりー!」
そのまま抱きつかれる。
「ちょ、母さん!?」
「全然帰ってこないんだから!」
頭を撫でられる。
頬を触られる。
距離が近い。
「やめてくれって!」
「いいじゃないのー」
離れない。
「ちょっと!」
真希那が割り込む。
「それ私のポジション!」
「は?」
母親が止まる。
「何言ってるのよ」
「まーくんに抱きつくのは私でしょ!」
「私は母親なんだけど!?」
火花が散る。
「いやどっちもやめろ!?」
左右から引っ張られる。
「痛いって!」
「久しぶりなんだからいいでしょ!」
「私だって久しぶりなんだけど!」
完全にカオス。
玄関で三人がもつれ合う。
「……」
その中で。
ふと、家の中を見る。
廊下。
見慣れた景色。
「……」
また、重なる。
——走る足音。
——誰かの笑い声。
——名前を呼ばれる声。
「……」
一瞬だけ、息が詰まる。
でも。
「まーくん!!どっちなの!!」
「どっちも嫌だ!!」
現実に引き戻される。
騒がしい声。
引っ張られる体。
「……」
さっきの感覚が、残る。
消えない。
でも、言葉にできない。
「とりあえず中入るよ!」
母親が言う。
「ほら、荷物!」
「はーい!」
真希那が元気に返事をする。
真守は一歩、家の中に入る。
床の感触。
空気の温度。
全部、知っているはずなのに——
「……」
胸の奥で、何かが静かに揺れていた。
騒がしい声が響く。
笑い声。
足音。
いつも通りの光景。
それなのに。
「……」
ほんの少しだけ。
何かが、ずれている気がした。
夏が、始まる。
そしてそれは——
忘れていた何かを、少しずつ引きずり出す夏だった。




