68話 俺×違和感=置いていかれます。
生徒会室の空気は、いつも通りだった。
いつも通り——のはずだった。
「……」
真守は、扉の前で一瞬だけ立ち止まる。
昨日のことが、頭をよぎる。
夕焼けの中。
あの言葉。
——一番に、いてほしい。
「……」
小さく息を吐く。
考えても仕方がない。そう思って、扉を開けた。
「おはようございます」
なるべく自然に、声をかける。
「おはよう」
返ってきたのは、いつも通りの声だった。
「……」
視線を上げる。
葵は、何事もなかったかのように書類に目を落としている。昨日のことなど、まるでなかったかのように。
「……」
少しだけ、戸惑う。
(あれ……?)
もっと、気まずくなると思っていた。避けられるかもしれないとも思っていた。
けれど——
「楽々浦くん、これ」
普通に資料が差し出される。
「昨日の続き」
「あ、はい」
反射的に受け取る。
距離も、態度も、全部いつも通りだった。
「……」
逆に、どうしていいか分からなくなる。
「……あの」
思い切って声をかける。
「昨日のことなんですけど——」
「ん?」
葵が顔を上げる。
ほんの少しだけ、間があって。
「……ああ」
軽く頷く。
「気にしなくていいよ」
あっさりとした言葉。
「私も疲れてただけだと思うし、変なこと言っただけだから」
「……でも」
「ほんとに大丈夫」
柔らかく笑う。
「忘れてくれていいから」
その笑顔は、確かにいつも通りだった。
けれど。
「……」
どこか、ほんの少しだけ、何かが残っている気がした。消しきれていない、薄い影のようなもの。
「……はい」
それ以上は、踏み込めなかった。
踏み込んでいいのかも、分からなかった。
「じゃあ、仕事やろ」
葵が自然に話を戻す。
「はい」
真守も、それに従う。
今は、それでいい。そう思うことにした。
ペンを走らせる。書類をめくる。数字を追う。
ただ、それだけの時間。
それなのに——
「……」
どこか、集中しきれない。
視線の端で、葵の姿を無意識に追ってしまう。
いつも通りの動き。
いつも通りの表情。
それなのに、なぜか少し遠く感じた。まるで別人のような感覚にもなる。
「……」
気のせいだと、自分に言い聞かせる。
そして、意識を無理やり仕事に戻した。
——それから、一週間。
生徒会は、驚くほど順調に回っていた。
「これ、終わりました」
「早いな」
「あたりまえっす!」
山影と三宝のやり取り。
重たい書類を軽々と運びながら、山影はどこか楽しそうに動いている。
雑務や力仕事の類は、完全に“向いている”ようだった。
(……あれで庶務なのかよ)
むしろ適職に見える。
一方で——
「ここ、計算はこう」
「はい……」
会計の席。
坂下の隣に座っているのは、アリスだった。
本来そこにいるはずだった祇園の席。その場所に、自然と収まっている。
「焦らなくていいよ」
優しく、落ち着いた声で教える。
「一つずつやれば大丈夫」
「……はい」
坂下も、それに素直に従っていた。
その光景は、穏やかで、綺麗で。
——まるで最初からそうだったかのように、自然だった。
「……」
少しだけ、引っかかる。
そして——
「こっちの書類、まとめておきました」
「助かる」
書記側。
黒ヶ峰と池鶴が並んで作業している。最初はどうなるかと思ったが、意外にも息が合っていた。
無駄な会話はない。それでも、やり取りはスムーズで、噛み合っている。
「……」
全体を見渡す。
誰一人として、無駄な動きをしていない。
誰一人として、迷っていない。
そして——
誰一人として、疲れていない。
(……なんだこれ)
普通じゃない。仕事量は多いはずなのに。
それなのに、全員が淡々と、正確に、こなしている。
まるで機械みたいに。
「……」
視線を落とす。
自分の手元。
まだ終わっていない書類。少しだけ、遅れている進行。
(……俺だけか)
ぽつりと、そんな感覚が浮かぶ。
置いていかれている。そんな気がした。
「……」
軽く息を吐く。
顔には出さない。出したところで、意味はない。
「楽々浦くん」
葵の声。
「そこ、まだ?」
「……あ、はい。もう少しです」
「急がなくていいけど、正確にね」
「はい」
いつも通りのやり取り。
それでも。
「……」
どこか、距離を感じてしまう自分がいた。
その日の帰り道。
「……」
真守は一人、歩いていた。
生徒会室を出た後の空気は、やけに軽かった。
それなのに、胸の中は重いままだった。
(なんなんだよ……)
うまくいっているはずなのに。問題はないはずなのに。それでも、どこかおかしい。
自分だけが、取り残されているような感覚。
「……」
ふと、足を止める。
夜風が、少しだけ涼しかった。
「……」
思い出す。
夜の公園。
祇園の姿。
あの時の、少しだけ落ち着いた時間。
「……行くか」
小さく呟く。
理由はない。ただ、なんとなく。
そのまま、歩き出した。
夜の街へ。ただただ、静かな道に足音だけが響いていた。




