64話 俺×夜空=少しずつ変わっていきます。
夜の空気は、昼間よりもずっと素直だった。
学校では何も起きなかった。
授業も、会話も、生徒会の選挙も、全部が綺麗に終わってしまった。あまりにも整いすぎていて、逆に胸の奥がざわつくくらいに。
だからだろうか。
真守は部屋に戻ってからも、どうにも落ち着かなかった。
「……ちょっと行ってくる」
誰に言うでもなく小さく呟いて、財布とスマホだけを持って部屋を出る。
目的があるようで、ないような外出だった。
強いて言うなら、散歩。
もっと正直に言うなら——祇園に会えるかもしれない、という淡い期待。
最近、夜の街で何度かあの人に会っている。
偶然にしては出来すぎている気もするが、それでも今日もいるんじゃないかと、そんなことを考えてしまう自分がいた。
寮を出て、夜道をゆっくり歩く。
この時間の街は静かだ。昼間の学生たちの声も、車の音も少なくなって、代わりに遠くの信号機の電子音や、風に揺れる木々の葉擦れだけが耳に残る。
コンビニに寄って、飲み物と適当なお菓子、それから部屋で切らしていた日用品を買う。レジ袋を片手に店を出ると、夜風が少しだけ強くなっていた。
「……平和だな」
思わず漏れる。
昼間に感じていた違和感も、こうして一人で歩いていると少しだけ薄まる。
何も起きていない夜の街は、ただ静かで、少し冷たくて、それでも悪くなかった。
そのまま帰ろうとして、ふと足が止まる。
公園の前だった。
薄暗い街灯に照らされたベンチ。
その一つに、見覚えのある人影が座っている。
「……あ」
自然と声が漏れた。
細い肩。
長い髪。
少しだけ背を丸めるように座る姿。
「祇園先輩?」
名前を呼ぶと、その人影がゆっくり顔を上げる。
「……楽々浦くん」
街灯の下に浮かぶその顔は、前に見た時よりもさらに儚く見えた。
派手なはずのピンク色の髪も、夜の光の中では少し色を失って見える。怪我は少し良くなった様子だが、表情が妙に弱々しかった。
「こんな時間にどうしたの?」
祇園が先に口を開いた。
「買い出しです」
真守は手に持った袋を軽く持ち上げる。
「そっか」
小さく笑う。
その笑顔は、以前のような“あざとさ”を前面に出したものじゃなかった。どこか力が抜けていて、それでいて少しだけ安心したような、そんな笑い方だった。
「祇園先輩こそ」
真守はベンチの前に立ったまま聞き返す。
「こんなところで、何してるんですか?」
「……ちょっと、考え事」
視線がわずかに下がる。
その返事の仕方だけで、深く踏み込まれたくないのだと分かる。
それでも、今日の真守にはそれをそのまま流してしまう気にはなれなかった。
「……無理してませんか」
静かに聞く。
「最近、色々あったし」
「……」
祇園は何も言わない。
ただ、指先だけが小さく動いた。スカートの端をつまむようにして、ぎゅっと力が入っている。
「……大丈夫」
しばらくしてから返ってきたのは、そんな短い言葉だった。
でも、その声は揺れていた。
普通の“大丈夫”とは違う。自分に言い聞かせるみたいな、無理をしている一言だった。
真守は少しだけ息を吐いて、ベンチの端を見た。
「隣、いいですか」
祇園は少し驚いたようにこちらを見て、それから小さく頷く。
「……うん」
真守はゆっくり腰を下ろした。
夜の公園は静かだった。
人気のないブランコが風でわずかに揺れて、きぃ、と細い音を鳴らす。滑り台の金属部分は街灯の光を鈍く返していて、砂場の影はやけに黒い。
どこにでもある普通の公園のはずなのに、夜になるだけで少し違う場所みたいに見える。
その中で、二人だけが同じベンチに座っていた。
「……今日、生徒会室に祇園先輩いませんでしたよね」
真守が言うと、祇園の肩がほんの少しだけ揺れた。
「ああ……気づいちゃったか」
「気づきますよ」
「そっか」
力のない返事。
「新生徒会の話、してました」
「うん」
「祇園先輩は……」
そこで一度言葉を切る。
聞いていいのか迷った。
でも、ここで曖昧にしても仕方ない気がした。
「辞めたんですか?」
夜風が吹く。
祇園の髪が頬にかかり、それを払う仕草さえいつもより遅かった。
「……辞めた、っていうか」
小さく笑う。
でも、その笑いには自嘲しか混じっていない。
「半分、辞めさせられたようなものかな」
「……」
予想はしていた。
でも、いざ本人の口から聞くと重みが違う。
「会長が?」
「うん」
あまりにもあっさりした肯定だった。
「もう無理なんだって。向いてないし、邪魔だし、必要ないって」
「そんな言い方……」
思わず眉が寄る。
祇園は少しだけ肩をすくめた。
「会長はさ、普段はすごく優しいんだよ」
「……」
「優しいからこそ、逆らえないの。怒鳴るより、静かに切られる方が、ずっと怖いんだよね」
その言い方が、やけにリアルだった。
真守の中に、今日の生徒会室の光景がよみがえる。
穏やかに笑いながら、全部を決めてしまう会長。誰も逆らわず、それが当然みたいに物事が進んでいく空気。
「最初はね、別に平気だったの」
祇園がぽつりぽつりと話し始める。
「どうせ私なんて、軽いノリで入っただけだし。会長に怒られても、嫌われても、いつものことって思ってた」
「……はい」
「でも、だんだん分かんなくなってきて」
祇園の声が、少し掠れる。
「笑ってるのに怖くて。優しくされるほど苦しくて。なんでこんなに震えてるのか、自分でも分かんなくて……」
街灯の下で見る横顔は、本当に別人みたいだった。
最初に会った時の祇園先輩は、正直言って苦手だった。あざとくて、軽くて、何を考えているか分からなくて、少しだけ人を小馬鹿にするようなところもあった。
でも今、隣にいるのはそんな人じゃない。
ただ、傷ついて、疲れて、どこにも逃げ場がなくなってしまった一人の女の子だった。
「……楽々浦くんって、優しいね」
不意に、そんなことを言う。
「普通ですよ」
「普通じゃないよ」
前にも聞いたやり取りだった。
けれど、今のそれは前よりずっと静かで、真っ直ぐだった。
「こんな話、普通の人なら面倒くさがるもん」
「面倒じゃないです」
「……そういうところだよ」
祇園が少しだけ笑う。
その笑顔は綺麗だった。
でも、次の瞬間、その口元がふるっと震えた。
「あ……」
小さく漏れる声。祇園が俯く。
肩が揺れていた。
「……先輩?」
返事はない。
代わりに、ぽたり、と何かが膝の上に落ちた。
涙だった。
「……ごめん」
祇園が、かすれた声で呟く。
「こんなつもりじゃなかったのに……」
そのまま、次々と涙が零れ落ちる。
必死に止めようとしているのが分かる。でも、止まらない。細い肩が小刻みに震えて、息を吸うたびに喉が詰まったような音が漏れる。
「……っ、もう無理……」
その言葉を聞いた瞬間、真守の中で何かが切れた。
考えるより先に、体が動いていた。
「……」
祇園の肩にそっと手を回す。
そして、そのまま引き寄せた。
「……え」
祇園の体が、わずかに強張る。
真守自身も、何をしているのか分かっていなかった。
ただ、今この人を一人で泣かせたくないと思った。それだけだった。
「大丈夫です」
小さく言う。
「……大丈夫じゃないですけど」
わけの分からない言葉になった。
でも、祇園は少しだけ息を呑んで、それから真守の胸元に顔を埋めた。
「……っ、う……」
声を殺すように泣いている。
それは、見ていて胸が痛くなる泣き方だった。
最初に会った頃の自分なら、きっとこんな距離で祇園先輩と向き合うなんて考えもしなかっただろう。面倒で、危なくて、関わるとろくなことにならない人だと思っていた。
でも今は違う。
腕の中にいるのは、そんな厄介な先輩なんかじゃない。
ただ、か弱くて、傷ついていて、それでも一人で立っていようとして、とうとう耐えきれなくなった女の子だった。
「……」
真守は何も言わなかった。
下手な慰めなんて、今は薄っぺらくなる気がしたから。
ただ、逃げないように、離れないように、そっと支える。
夜風が二人の横を通り過ぎていく。公園の木々が揺れて、葉の擦れる音が静かに響く。遠くで犬の鳴き声がして、また静寂が戻る。
しばらくして、祇園の震えが少しずつ落ち着いていった。
「……ごめんね」
ようやく聞こえた声は、泣き疲れたせいでひどく弱かった。
「服、濡れたよね」
「別にそれはいいです」
「よくないよ……」
少しだけ離れて、祇園が目元を拭う。
泣いたせいで、いつもの作り込まれた可愛さはほとんど消えていた。でも、その無防備さが逆に痛々しくて、目を逸らしたくなった。
「……ありがとう」
ぽつりと呟く。
その言葉には、さっきまでとは違う温度があった。
「楽々浦くんがいてくれて……よかった」
「……」
返事に困る。
こういう時、何て言えばいいのか分からない。
「……たまたまです」
結局、そんなことしか言えない。
でも祇園は、少しだけ笑った。
「うん。そういうことにしとく」
その笑い方は、最初に出会った時の軽薄さとはまるで違っていた。
また沈黙が落ちる。
けれど、さっきまでの気まずさはなかった。
「……じゃあ、俺そろそろ」
真守が袋を持ち直して立ち上がる。
「うん」
祇園も小さく頷く。
「無理しないでくださいね」
「……うん」
「今度会った時は、ちゃんと笑ってください」
「それ、難しい注文だなあ」
少しだけ困ったように笑う。
でも、その笑顔は確かに前より温かかった。
「……じゃあ、また」
真守が軽く手を振る。
「うん。またね、楽々浦くん」
祇園も、小さく手を振り返す。
その仕草は、最初に会った頃よりずっと弱くて、ずっと自然だった。
距離は、確実に近づいていた。
それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
ただ一つ分かるのは——
今夜のこの光景は、きっとしばらく忘れられないということだけだった。
夜風は静かに吹いていた。
街灯の下の公園も、ベンチも、泣き腫らした祇園の横顔も。
全部が、やけに鮮明に残っていた。




