63話 俺×選挙=あっさり終わります。
教室の空気は、驚くほど穏やかだった。
あの騒ぎが嘘だったかのように、日常は何事もなく流れている。
笑い声が響き、授業が始まり、チャイムが鳴る。そんな当たり前の時間を過ごしながらも、真守の中にある違和感だけは、どうしても消えなかった。
けれど——
それを考えても仕方がない。
そう割り切るようにして、一日をやり過ごす。
そして昼休み。
「楽々浦君」
呼び止められる。
振り返るまでもなく分かる声だった。
「来てくれるかな」
「……はい」
短く返す。
断る理由はない。むしろ、最初からそのつもりだった。
生徒会室の扉を開ける。
いつも通りの空気——のはずだった。
「……」
一歩踏み入れた瞬間、ほんのわずかに違和感を覚える。
視線が室内をなぞる。
池鶴、三宝、アリス、そして会長。見慣れた顔ぶれ。
けれど——
「……」
一人、いない。
(祇園先輩……?)
自然とその名前が浮かぶ。
「……」
一瞬だけ、これまでの姿が頭をよぎる。
床に額を押しつけて震えていた姿。
松葉杖をつきながら、無理に笑っていた姿。
「……」
怪我で来られないのか。
それとも——
そこまで考えて、思考を止める。
考えたところで答えは出ない。
「遅いわね」
鋭い声が飛んできた。
「すみません」
反射的に頭を下げる。
視線の先には池鶴。
相変わらず隙のない表情でこちらを見ている。
「まあいい」
それを遮るように、会長が軽く手を上げた。
「全員揃ったようだね」
「……」
その言葉に、ほんの一瞬だけ引っかかる。
——全員?
「……」
だが、誰も何も言わない。
それが、この場の“普通”だった。
「それじゃあ、始めようか」
その一言で、空気が完全に固定される。
「今回の議題は一つ」
会長がゆっくりと口を開く。
「六月に行う生徒会選挙についてだ」
机の上に並べられる資料。
整然としたその様子は、最初からすべて準備されていたことを物語っている。
「すでに各役職ごとに候補は絞ってある」
「それぞれ二名まで」
淡々とした説明。無駄がない。
「そこから最終的な一名を選出する」
「担当は以前決めた通り」
その言葉に合わせるように、全員が資料へと手を伸ばす。
紙をめくる音だけが、静かに響く。
真守も一応手に取る。
だが——
「……」
すぐに気づく。
これは選ぶためのものじゃない。確認するためのものだ。
視線が自然と葵へ向く。
その立ち姿は、すでに副会長そのものだった。
「楽々浦君」
会長の声。
「君は副会長の選定だったね」
「……はい」
「どうだい?」
一瞬だけ間を置き、答える。
「もう決まっているようなものかと」
「ほう?」
「葵先輩が副会長になる前提で、全てが進んでいるように見えます」
空気がわずかに止まる。
だが、それはすぐに崩れた。
「ははっ」
会長が笑う。
「その通りだ」
あっさりと認める。
「形式上の選考ではあるが、実質的には決まっている」
「……そうですか」
「だから君の役目は——」
少し間を置いて、
「ほとんどない」
「……」
やっぱりな。
「まあ、一応目は通しておいてくれ」
「はい」
資料に目を落とす。
だが、その行為に意味はない。すでに、すべて決まっている。
「それでは」
会長が立ち上がる。
それだけで、空気が一段引き締まる。
「最終決定に移ろう」
早い。だが、誰も疑問を持たない。
「各自の意見は?」
「問題ありません」
「異議なし」
「同じく」
迷いのない返答。
「楽々浦君は?」
「……問題ありません」
「よろしい」
そして——
「では」
一度、軽く息を整え、
「僕の独断と偏見で決めさせてもらう」
「……」
やっぱりそれなんだな。誰も止めない。
止める必要もない。
「それが一番効率的だからね」
穏やかな笑顔のまま、会長は名前を挙げていく。
迷いは一切ない。
選ぶというより——
最初から決まっていたものを、なぞっているだけのようだった。
「以上だ」
資料を閉じる。
「これにて、新生徒会の発足とする」
あまりにもあっさりと。
何もかもが、何事もなく終わる。
「……」
静かな生徒会室。
誰も何も言わない。その沈黙が、この場の“完成度”を物語っていた。
「楽々浦君」
会長がこちらを見る。
「これから忙しくなるよ」
「……はい」
「期待している」
優しい笑顔。
その表情は、どこまでも穏やかで。
それなのに——
「……」
その奥が、見えない。
そして、ふと。
視線が、空いている席に向く。
祇園の席。
そこだけが、ぽっかりと空いていた。
「……」
何も言わず、視線を逸らす。
誰も気にしていない。
まるで——
最初から、そこに誰もいなかったかのように。
胸の奥が、わずかにざわついた。




