60話 俺×その後=何かがおかしいです。
サイレンの音が、少しずつ遠ざかっていく。
さっきまで張り詰めていた空気が、ゆっくりと緩んでいった。
「……終わった、のか」
真守はその場に立ったまま、小さく息を吐く。
足の力が抜ける。ようやく、実感が追いついてきた。
そのとき——
「……怖かった」
小さな声。
振り向くよりも先に、体に衝撃が走る。
「……っ」
葵が、そのまま真守に抱きついていた。
強く。
そして真守は逃げるように。
「……すみません、ちょっと」
言葉は冷静でも、手は離れない。
肩に顔を埋めるようにして、ぎゅっとしがみついてくる。
体温が伝わる。
震えも、はっきりとわかる。
「……大丈夫です」
真守は少し戸惑いながらも、静かに言った。
「もう、終わりましたから」
「……うん」
返事はあったが、離れる様子はない。むしろ、少しだけ力が強くなる。
その瞬間——
「ちょっと」
低い声が入る。
「離れて」
奏だった。
「今の状況でそれ必要?」
「必要」
即答。
「過剰接触」
「言い方」
葵が少しだけ顔を上げる。
「……少しくらいいいでしょ」
「よくない」
一歩踏み込む。
「離して」
「やだ」
「……」
一瞬の間。
そして、奏が無言で手を伸ばす。
「ちょっ」
引き剥がそうとする。
「ちょっと待って!」
「待たない」
軽く揉める。
その横で——
「え、え、え!?」
赤坂が完全に混乱していた。
「ちょっと何これ!?今そういう流れ!?」
「違います」
真守が即答する。
「違うの!?」
「違います」
「でも距離近くない!?」
「近いですけど違います」
「なにそれ!?」
会話がぐちゃぐちゃになる。
さっきまでの緊張が嘘みたいに、空気が崩れる。笑いそうになるくらい、普通だった。
けれど——
「……あれ」
真守の視線が、自然と周囲を探す。
違和感。
「神楽坂先輩は?」
誰も、答えない。
さっきまで、確かにいた。
なのに——
どこにもいない。
「……ちょっと行ってきます」
真守は短く言って、その場を離れた。
走る。
足音が廊下に響く。息が上がるが、それでも止まらない。
(なんでいない)
あの場で、いなくなる理由がない。
それなのに——
嫌な予感だけが膨らむ。
生徒会室の前に着き、扉を開ける。
「……」
中は静かだった。
そして。
「……来たのね」
一人。
アリスが、椅子に座っていた。
いつもと同じ、少し俯いた姿勢。
けれど——
空気が違う。
「……なんで」
真守は息を整えながら言う。
「なんで、あそこにいなかったんですか」
「……」
アリスはすぐには答えない。
「作戦は、成功した」
ぽつりと呟く。
「問題ない」
「問題あります」
即座に返す。
「全部、うまくいきすぎてる」
一歩近づく。
「なんで、あんなに正確なんですか」
「……」
「襲われる場所も、タイミングも」
言葉が少し強くなる。
「なんでわかるんですか」
「……」
沈黙。
そして——
「全部、知ろうとしない方がいい」
アリスの声が、落ちる。いつもと違う。少し低く、重い。
「……は?」
「楽々浦くん」
ゆっくりと顔を上げる。
その目が、真っ直ぐに向く。
「それ以上、踏み込まない方がいい」
「なんでですか」
「あなたのため」
「納得できません」
即答だった。
「じゃあ何ですか」
さらに踏み込む。
「全部知ってるって言ってたの、あれなんなんですか」
「……言い過ぎたって言ったじゃん」
「じゃあ今のはなんですか」
「……」
一瞬の間。
「知らない方がいいこともある。ただそれだけ」
「……」
空気がぶつかる。
静かに。けれど確実に。
「……ふざけないでください」
真守の声が、少しだけ揺れる。
「こっちは——」
言葉が止まる。
感情が先に出る。
「……」
アリスは、何も言わない。
ただ見ている。その視線が、逆に重かった。
「……もういいです」
小さく吐き出す。
それ以上、言葉が続かなかった。
「……失礼します」
背を向けてそのまま、生徒会室を出た。
廊下は少しだけ冷たい空気だった。作戦は成功したはずなのに、解決はしていないような感覚になる。
真守は頭を振り、悪いことは考えないようにと歩き出したその時。
「……やあ、楽々浦君」
声がかかり、振り向く。そこには、いつもの穏やかな表情をした会長がいた。
「……会長」
「お疲れ様」
ゆっくりと近づいてくる。
「今回の件、よくやってくれたね」
柔らかい声。
「警察の方でも、男たちの身元はすぐに確認されるだろうし、主犯もすぐ捕まるさ」
「……そうなんですか」
「うん」
軽く頷く。
「だから、同じようなことは起きないはずだ」
その言葉は、どこか安心感があった。
「……そうですか」
「僕からも警察に話をするから、警備体制とかも今まで以上に厳しくしてもらうようにするよ」
真守は小さく息を吐く。
「……ありがとうございます」
素直に、そう言えた。
「いいんだよ」
会長は微笑む。
「君たちが頑張ったから、僕も役に立ちたくてね」
優しい声。穏やかな空気。
さっきまでの重さが、少しだけ薄れていく。
「……助かります」
真守は最後に軽く頭を下げ、そのまま歩き出す。
背中越しに感じるのは——
いつも通りの、日常の気配。
けれど。
心の奥に、何かが引っかかっていた。
それが何なのかは、まだわからないまま。




