57話 俺×夜風=少しだけ近づいてしまいます。
シャワーの音が、部屋の奥から響いていた。
広いリビングには、湯気の余韻と静けさが混ざっている。
「……」
真守はソファに座りながら、なんとなく落ち着かない気持ちで待っていた。
この状況自体が、そもそもおかしい。
自分の部屋に、女の子が三人。
しかも一人は姉で、もう一人は先輩で、その姉までいる。
なんでこうなったのか、考えても答えは出ない。
そのとき、ガチャ、とドアが開く音がした。
「お待たせ」
最初に出てきたのは葵だった。
「……」
真守の思考が、一瞬止まる。
いつもは、前髪を上げて整えられている髪。
編み込みも入っていて、どこか鋭い印象すらあるそのスタイル。
けれど今は——
それが、すべて下ろされていた。
前髪も自然に額にかかり、サイドもそのまま落ちている。
少し濡れた髪が、肩に沿って揺れる。
まるで別人だった。
「……あ」
思わず、声が漏れる。
葵が小さく首をかしげる。
「どうかした?」
「いや……その」
視線が定まらない。
「いつもと、全然違うなって」
「……そっか」
葵は少しだけ照れたように笑った。
「こっちの方が、変じゃない?」
「いや」
反射的に否定する。
「むしろ……」
一瞬、言葉を選ぶ。
「……こっちの方が、いいと思います」
「……」
葵の目が、少しだけ見開かれる。それから、ふっと視線を逸らした。
「……そっか」
小さく、嬉しそうに呟く。
そのとき——
「次のシャワーあたしねー」
「葵の後は私に決まってんだろ!」
真希那と奏の声が奥から聞こえてくる。
空気が一気に現実に戻された。
しばらくして、全員がリビングに集まっていた。テーブルの上には、飲み物と軽いお菓子。
そして——
「はい、これ」
真希那が一本の缶を奏に差し出す。
「……ノンアル?」
奏が眉をひそめる。
「そうそう。雰囲気だけでも味わえば?」
「……」
少しだけ迷う。
真守はその様子を見て、すぐに口を挟んだ。
「いや、奏先輩、それでもやめといた方が——」
「ノンアルなんでしょ」
奏が淡々と返す。
「なら問題ない」
「いや、そうですけど」
なんとなく嫌な予感がする。
「……まあ、いいか」
奏は缶を開けた。
シュッ、という軽い音。一口、飲む。
「……」
少しだけ間が空く。
「どうですか」
真守が聞くと、奏は真顔のまま言った。
「……悪くない」
「でしょ?」
真希那が満足げに笑う。自分は普通にアルコールを飲んでいた。
「まーくんも飲む?」
「飲まない」
即答だった。
「えー、つまんない」
「状況考えろ」
「楽しいじゃん」
「どこがだよ」
そんなやり取りをしている間にも、奏は少しずつ飲み進めていた。
そして——
数分後。
「……」
様子がおかしい。
「奏先輩?」
真守が声をかける。
奏は少しだけ視線を揺らした。
「……なんか」
ぽつりと呟く。
「ふわっとするな」
「するわけないです」
即座に否定する。
「ノンアルなんで」
「……そうか」
納得したのかしてないのか、よく分からない返事。そのまま、もう一口飲む。
「……」
「……」
「……大丈夫だ」
突然、言い出す。
「私は酔ってない」
「いや酔ってないですけど」
「大丈夫だ」
同じことを繰り返す。明らかにおかしい。
その隣で、真希那は普通に飲んでいる。
「この子弱いねー」
「弱くない」
奏が即座に反応する。
「これは……気のせいだ」
「うんうん」
全然信じてない返事。
数秒後。
「……」
奏の体が、ふっと横に傾いた。
「ちょ、先輩」
真守が支えようとするが——
「……寝た」
あっさりだった。
「早すぎだろ」
真守は呆れる。
その横で。
「……」
葵も、静かにソファにもたれていた。
「葵先輩?」
返事がない。
「……こっちもかよ」
どうやら緊張が抜けて、そのまま寝てしまったらしい。
そして。
「……」
真希那も、グラスを持ったまま目を閉じていた。
「真希ねぇ?」
「……んー……」
返事はあるが、ほぼ寝ている。みんながリビングに集まる前に、先に飲んでいたから仕方ない。
もう、完全に潰れかけていた。
「……なんなんだこれ」
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、静かになる。広いリビングに、寝息だけが響く。
「……はぁ」
真守は小さく息を吐いた。
とりあえず、三人に毛布をかけ、そのまま少しだけ離れる。
窓の外を見る。
夜は、もう完全に深くなっていた。そして、なんとなくそのまま、ベランダに出た。
夜風が、少しだけ冷たい。静かな空気。
遠くの街の灯りが、ぼんやりと広がっている。
「……」
真守は手すりに寄りかかる。
今日一日の出来事を思い返す。全部、現実味がなかった。
そのとき。
後ろで、小さく扉が開く音がした。
「……楽々浦くん」
振り返ると、そこに葵が立っていた。
「……すみません、起こしちゃいましたか?」
「ううん」
葵は首を横に振る。
「なんとなく、目が覚めただけ」
少しだけ眠そうな声。けれど、その表情はさっきよりも落ち着いていた。
「寒くないですか」
「大丈夫」
そう言って、ゆっくりと隣に来る。
自然な距離。さっきより、少しだけ近い。
「……静かだね」
「ですね」
短いやり取り。風の音だけが、間を埋める。
少しの沈黙。
「……楽々浦くん」
「はい」
「怖くないの?」
その問いに、真守は少しだけ考える。
「……怖いですよ」
正直に答える。
「何が起きるか分からないし」
「……そっか」
葵は小さく頷く。
「私も、ちょっと怖い」
その声は、昼間よりもずっと弱かった。
「でも」
少しだけ、間を置く。
「さっきよりは、大丈夫かも」
「……?」
真守が見ると、葵は少しだけ笑った。
「こうして話してると、少し落ち着くから」
「……そうですか」
うまく返せない。けれど、少しだけ胸の奥が温かくなる。
「……楽々浦くんってさ」
葵がぽつりと呟く。
「なんか、不思議だよね」
「え?」
「巻き込まれてばっかりなのに」
少しだけ笑う。
「一緒にいれば、なんとかなるかもって」
「……」
言葉に詰まる。
そんなこと、考えたこともなかった。
「だから」
葵が少しだけ視線を落とす。
「近くにいたいって、思ったのかも」
ほんの一瞬。
空気が、静かに揺れる。
「……」
真守は、何も言えなかった。言葉にしたら、何かが変わりそうで。
ただ、隣に立っている。距離は近い。けれど、触れてはいない。
それでも——
さっきより、確実に近くなっていた。
夜風が、二人の間をすり抜ける。遠くで、車の音が小さく響く。そのすべてが、やけにゆっくりと感じられた。
この静けさの先に、何かが待っている。
そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。




