38話 俺×手紙=壊されるものです。
一年A組の調査を終えて、生徒会室へ戻った。
廊下を歩いている間も、真守の頭の中にはさっきの光景が残っていた。
黒ヶ峰の怒鳴り声。
山神の冷静な指摘。
教室の中に漂っていた、誰か一人を悪者にしていくような空気。
そして、その隣をずっと黙って歩いていた葵。
何もかもが気まずかった。
「……疲れた」
小さく呟く。
今日だけで、また余計な問題を背負い込んだ気がする。
生徒会室の扉を開ける。
「……あれ」
室内は静まり返っていた。
会長もいない。
三宝もいない。
池鶴もいない。
祇園の席も空いたまま。
窓から差し込む夕陽だけが、広い部屋の床に長い影を落としている。
「……誰もいないのか」
いつもなら誰かしらいるはずの生徒会室が、妙に空っぽに見えた。
広すぎる部屋、豪華すぎる机、静かすぎる空気。その全部が、今日はやけに不気味だった。
真守は自分の席へ向かう。
その時だった。
「……?」
机の上に、白い封筒が置かれていた。
何も書かれていない。宛名もなく、差出人もない。ただ、真っ白な封筒。
「……何だ、これ」
嫌な予感がした。
触れない方がいい気がする。でも、見なかったことにもできない。
真守はゆっくり手を伸ばし、封筒を手に取った。
中には一枚の紙が入っていた。
乱れた字、震えたような線。ところどころインクが滲んでいる。
真守は無意識に息を止めた。
【これ以上大切なものを奪うのなら、
お前の大切なものを一つずつ壊していく】
「……っ」
背筋が冷える。
一瞬、部屋の温度が下がったような気がした。
心臓が嫌な音を立てる。
「……なんだよ、これ」
声が掠れる。
手紙を持つ指が震えた。
怪文書。
脅迫文。
そう呼ぶしかない内容だった。
「……」
誰だ、誰がこんなものを。
真守は反射的に周囲を見回す。生徒会室には誰もいない。窓、扉、机の影。どこにも人の気配はない。けれど、見られているような感覚だけが残った。
「……」
真守は咄嗟に手紙を折り畳む。
そして、封筒ごとポケットへ押し込んだ。
誰にも見られたくなかった。いや、見せてはいけない気がした。
「……」
思い当たるものがないわけではなかった。
上高町子。
自殺。
助けられなかったこと。
祇園からの恨み。
奏の怒り。
黒ヶ峰の冷たい視線。
池鶴の猫の件。
三宝の鉄拳制裁。
自分が関わったもの全部が、どこかで誰かの怒りに繋がっている気がした。
「……大切なものって」
小さく呟く。
大切なもの。
真守には、すぐに思い浮かべられるほど分かりやすいものはない。
けれど。
真希那。
赤坂。
白ヶ崎。
神宮丸。
少しずつ増えてきた人達の顔が浮かぶ。
「……」
嫌な汗が背中を伝った。その時、扉が開いた。
「……楽々浦君」
入ってきたのは葵だった。少し遅れて戻ってきたらしい。表情は暗い。
真守の顔を見るなり、申し訳なさそうに視線を落とした。
「……」
二人きり。
ただでさえ気まずい空気が、さらに重くなる。
真守はポケットの中の手紙を意識しながら、何も言えなかった。
葵も少しの間、黙っていた。
「……あの」
先に口を開いたのは葵だった。
「昨日のこと」
「……」
「ちゃんと謝りたくて」
真守は答えない。
正直、今は葵の話を聞く余裕がなかった。脅迫文のことで頭がいっぱいだった。
それでも、葵は続ける。
「奏があんなことするなんて、私も本当に予想外で……」
「……」
「止められなくて、ごめん」
声が震えている。
「今日も、私が話しかけたせいで嫌な思いさせたよね」
「……もういいです」
真守は静かに遮った。
「話したくないです」
そう言って席を立つ。
葵の顔が苦しそうに歪む。
「待って」
真守はドアへ向かう。
「お願い、聞いて」
葵が慌てて追いかけてくる。
そして、真守の腕を掴んだ。
「……っ」
小さな手が震えていた。
「離してください」
「お願い」
葵の声が必死だった。
「本当に反省してるの」
「……」
「奏のことは、私がちゃんと抑えるから」
葵の目に涙が浮かぶ。
「もう二度と、あんなことさせない」
「……」
「だから……少しだけでいいから、話を聞いてくれないかな」
その声に、真守は足を止めた。
怒っていた。理不尽だと思っていた。今も首の痛みは残っている。
でも。
目の前の葵は、本気で苦しそうだった。
「……」
真守は小さく息を吐く。
少しだけ、冷静になる。
自分は、確かに冷たくしすぎていたかもしれない。
「……すみません」
葵が顔を上げる。
「俺も、ちょっと冷たすぎました」
「……ううん」
葵は首を横に振る。
「私の方が悪いよ」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。夕陽の光が、生徒会室に斜めに差し込んでいた。
葵はゆっくりと手を離す。それから、少しだけ視線を落とした。
「奏が、あんな風になってしまったのには理由があるの」
「……理由?」
葵は頷く。
その目は、遠くを見るようだった。
「私たちが中学生だった頃の話」
静かに話し始める。
真守は何も言わず、続きを待った。
「私、父親から暴力を受けてた」
「……」
言葉が出なかった。
葵の声は静かだった。
淡々としているのに、聞いているだけで胸が痛くなる。
「夜中に突然部屋に入ってきて、髪を掴まれて壁に叩きつけられたり」
「……」
「“お前なんか生まれてこなければよかった”って言われたり」
葵は少しだけ笑った。でも、それは笑顔じゃなかった。
「体中あざだらけでさ。学校ではずっと長袖着て隠してた」
「……」
真守は何も言えない。
何か言えば、全部軽くなってしまいそうだった。
「特に嫌だったのは、奏と比べられることだった」
葵の声が少しだけ低くなる。
「奏は成績もいい。素直で可愛い。なのにお前は何もできない」
「……」
「毎日みたいに言われた」
葵は自分の髪に触れる。
「だから、私は反抗したくなった」
「……反抗?」
「女らしくしろって言われるのが嫌で、わざと男っぽく振る舞うようになった」
葵は小さく息を吐く。
「髪を短くしたり、制服の着方を変えたり」
「……」
「今もこういう外見でいるのは、その名残」
そう言って、少しだけ困ったように笑った。
「かっこいいって言われると、安心するんだ」
「……」
真守の胸が痛んだ。
いつも明るくて、距離が近くて、余裕があるように見える葵。その裏に、そんなものがあったなんて思わなかった。
「それだけじゃない」
葵は続ける。
「学校でも、男子から嫌がらせを受けてた」
「……」
「ロッカーにゴミ入れられたり、机に落書きされたり、廊下で足を引っかけられたり」
葵の手が少しだけ震える。
「女男って笑われてた」
「……」
「誰も助けてくれなかった」
その言葉が、重く響く。
真守は上高のことを思い出す。助けられなかった女の子。
そして、今目の前にいる葵。
「奏は、それを見てた」
葵の目が少し揺れる。
「私が男の人に傷つけられてるところを、ずっと見てた」
「……」
「だから、ああなった」
妹を守るためなら、何でもする。
葵に近づく男は許せない。それが奏の中で、正義になってしまったのだろう。
「……でも」
葵は唇を噛む。
「それでも、楽々浦君にしたことは許されない」
「……」
「奏のことを庇いたいわけじゃない」
声が震える。
「ただ、知ってほしかった」
葵は涙を拭った。
「昨日の告白も」
少しだけ間。
「本気だった」
「……」
真守は顔を上げる。
葵は真っ直ぐこちらを見ていた。
「楽々浦くんのこと、人としてすごく好き」
「……」
「出会った時から、どんどん好きになっていった」
「でも」
葵は言葉を選ぶ。
「男女の仲っていうより……ただ、そばにいたい」
「……」
「傷つける人から、守りたい」
その声は、切実だった。
「私も、奏みたいに」
少しだけ苦しそうに笑う。
「大切な人を守れる人間になりたいの」
「……」
「だから」
葵が少しだけ頭を下げる。
「少しでも、近くにいさせて?」
その言葉は、重かった。
告白というより、願いだった。
真守はすぐに答えられなかった。
葵の過去。
奏の怒り。
脅迫文。
全部が頭の中で絡まっている。
「……」
ポケットの中の手紙が、やけに重く感じた。
大切なものを壊す。
その言葉が、また脳裏に浮かぶ。
「……わかりました」
葵が顔を上げる。
「ただ」
真守はゆっくり言う。
「少しだけ、時間をください」
「……うん」
葵の表情に、ほんの少しだけ光が戻る。
「ありがとう」
「……」
生徒会室に、夕陽が差し込んでいる。
温かいはずの光なのに、真守の胸の奥はまだ冷たかった。
葵との距離は、少しだけ戻ったのかもしれない。
でも。
ポケットの中には、あの手紙がある。
誰にも言えないまま。
不気味な言葉だけが、真守の心に深く刺さり続けていた。




