32話 俺×距離=近づきすぎます。
翌日。
真守は、朝からずっと落ち着かなかった。
教室にいても、授業を受けていても、昨日の光景が、何度も頭をよぎる。
真希那の笑顔、赤坂の真っ直ぐな言葉、白ヶ崎の優しい声。あの温かい空気。
「……」
少しだけ、救われた気がした。ほんの少しだけ、上高のことを忘れられた気がした。
でも——
生徒会室へ向かう足取りは、やっぱり重い。
廊下を歩きながら、小さく息を吐く。昨日の会長の笑顔が頭に浮かぶ。
祇園の土下座、逃げ場を塞ぐような優しさ。
そして。
「……夢百合先輩」
自然と名前が漏れる。
昨日の先輩は、妙に優しかった。優しすぎるくらいに。
「……」
生徒会室の前に立つ。
ほんの少しだけ、足が止まった。入れば、またあの空気に飲まれる。
そう思った瞬間だった。
ガチャ。
扉が開く。
「お、来た」
夢百合葵だった。
金髪のセミロングを軽く揺らしながら、真守を見る。
「楽々浦くん、おはよ」
「あ……お、おはようございます」
「ふふっ、そんな緊張しなくていいって」
夢百合は自然に真守の隣へ並ぶ。
距離が近い、昨日より近い気がするほどに。
「今日からよろしくね」
「……はい」
真守がぎこちなく返事をすると、夢百合は楽しそうに笑った。
そのまま、生徒会室へ入る。
会長がいつもの席で優雅に紅茶を飲んでいた。
「おはよう、楽々浦君」
「……おはようございます」
「今日は夢百合君と一緒に校内を回ってもらうよ」
会長は穏やかに微笑む。
「問題のあるクラスや、生徒の空気感を確認してきてほしい」
「……はい」
「楽々浦くん、行こっか」
夢百合が自然に袖を引く。
その動きがあまりにも自然すぎて、真守は抵抗するタイミングを失った。
廊下を並んで歩く。
夢百合は本当に楽しそうだった。
「この学校広いよねー」
「……ですね」
「でも私は結構好き」
夢百合が窓の外を見る。
「色んな人がいて、色んな空気があるから」
「……」
その横顔は綺麗だった。
大人っぽい、と同時にどこか危うさも感じる。
「ほら、あそこ見て」
夢百合が真守の腕を軽く掴む。
「……っ」
距離が近い。
教室の窓から中を覗き込む夢百合の髪が、真守の肩に触れた。
甘い匂いがする。
「このクラス、雰囲気いいね」
夢百合は楽しそうに笑う。
「みんなちゃんと笑ってる」
「……そうですね」
真守は無意識に少し後ろへ下がった。
すると夢百合が、じっとこちらを見る。
「……楽々浦くん」
「は、はい」
「さっきから避けてる?」
「……」
図星だった。
「いや、その……距離が近いです」
「ふふっ」
夢百合が小さく笑う。
「ごめんごめん」
そう言いながら、また距離を詰めてくる。
「でも、楽々浦くんのこと心配なんだよ」
「……」
「まだ学校戻ってきたばっかでしょ?」
夢百合の声は優しかった。
「だから、無理してないかなって」
「……」
その優しさが、少し苦しい。
見回りを続けながら、真守は小さく息を吐く。そして、ぽつりと呟いた。
「……正直」
夢百合がこちらを見る。
「まだ、生徒会やりたくないです」
「……」
「辞めたいって、ずっと思ってます」
声が自然と小さくなる。
「でも……言えなくて」
上高の顔が浮かぶ。
屋上。
落ちていく姿。
「上高さんのこと、まだ全然頭から離れないし……」
「……」
「会長見るだけで、なんか胸苦しくなるし」
真守は自嘲気味に笑った。
「なのに、断れないんです」
「……」
「俺、なんなんだろって」
廊下に静かな空気が流れる。
夢百合は少しだけ足を止めた。それから、真っ直ぐ真守を見る。
「楽々浦くん」
その呼び方に、真守は少しだけ目を見開く。
夢百合は優しい声で続けた。
「無理してるよね」
「……」
「私も聞いたよ。屋上のこと」
夢百合の表情が少しだけ柔らかくなる。
「楽々浦くんは、ちゃんと助けようとしてた」
「……でも」
「結果が全部飲み込んじゃったんだよね」
その言葉が、胸に刺さる。
「……」
「だから、自分を責め続けてる」
夢百合がゆっくり近づいてくる。
「でもさ」
優しい声。
「急に全部投げ出さなくてもいいと思う」
「……」
「少しずつでいいから、一緒にいよう?」
真守の袖を、そっと掴む。
「一人で抱え込まなくていい」
「……」
「私がいるから」
その言葉が、あまりにも優しすぎて。
真守は逆に苦しくなった。
距離が近い。また近づいている。真守は慌てて後ろへ下がろうとする。
だが。
トン。
背中が壁に当たった。
「……っ」
逃げ場がない。
「先輩……」
「ん?」
夢百合が首を傾げる。
距離が近い、近すぎる。
金髪が揺れ、甘い香りがさらに強くなる。
夢百合の瞳は真っ直ぐだった。迷いがなく、自信に満ちている。
「……」
真守の心臓が嫌なほど鳴る。
次の瞬間だった。
夢百合が、ゆっくり顔を近づける。
「……っ!?」
そして——
柔らかい感触が、唇に重なった。
「——」
頭が真っ白になる。
温かい。
柔らかい。
何が起きたのか、一瞬理解できない。
夢百合の唇が、真守の唇へ触れていた。
ほんの数秒。でも、その時間が異様に長く感じた。
やがて夢百合がゆっくり離れる。
「……」
真守は完全に固まっていた。理解が追いつかない。
「……え」
ようやく声が漏れる。
「……い、今」
キス。
その単語が頭に浮かんだ瞬間。
顔が一気に熱くなる。
(え、待って)
(キス!?)
(夢百合先輩が!?)
(俺に!?)
(え!?)
思考が完全に爆発した。心臓が暴れ、頭がぐちゃぐちゃになる。
(ファ、ファーストキス……!?)
(俺のファーストキスが……!?)
(なんで!?)
(え!?)
「っ……!?」
真守は壁際で完全に硬直する。
夢百合は少し頬を赤くしながらも、満足そうに笑っていた。
その目には、迷いがない。
「楽々浦くんを傷つける人は」
夢百合が静かに言う。
「私が許さないから」
「……」
耳が熱い、頭が回らない、足が震える。
逃げたい。
今すぐこの場から走って逃げたい。
なのに、体が動かない。夢百合の視線が、真っ直ぐ真守を捉えている。
「……」
廊下の空気が、妙に熱かった。
真守の頭の中は、完全にパニックになっていた。




