31話 俺×日常=少しずつ戻ります。
生徒会室を出た後も、しばらく胸の奥に重いものが残っていた。
祇園の土下座、会長の抱擁、夢百合先輩の柔らかい声。そして、あの部屋全体に満ちていた、逃げ場のない空気。
「……」
真守は寮へ向かいながら、小さく息を吐く。
結局、また流された。生徒会に戻ることになった。本当は逃げたかった。
けれど、言えなかった。
「……情けねぇな」
小さく呟く。
それでも、足は家へ向かっていた。あの重たい空気から離れたかった。少しでいいから、普通の場所に戻りたかった。
玄関の前に立つ。
鍵を開けようとした瞬間、内側から勢いよくドアが開いた。
「まー君、おかえり〜!!」
「うわっ!?」
真希那が飛びついてきた。
エプロン姿のまま、真守の首に両腕を回して、ぎゅっと抱きついてくる。
「ちょ、真希ねぇ、重いって……!」
「重くないもん!」
離れようとしても、真希那はまったく離れない。
むしろ余計に力を込めて、頬を真守の肩に擦りつけてくる。
「二週間も学校休んでた罰だよ〜。今日はお姉ちゃんが全力で甘やかしてあげるから、覚悟してね!」
「罰の方向性おかしいだろ……」
そう言いながらも、真守は強く振りほどけなかった。
いつものだる絡み。いつもの距離感。さっきまでの生徒会室とは違う空気。
それが、妙にありがたかった。
「……ただいま」
小さく言う。
真希那が少しだけ顔を上げる。
「うん。おかえり」
その言葉が、思っていたより胸に染みた。
「ところでさ」
真希那が耳元で小さく囁く。
「今日、うちに唯ちゃんと咲音ちゃんが来るんだけど」
「……え?」
「もうすっかり仲良くなっちゃったよ?」
「……どういうことだよ」
真守が首を傾げた、その時だった。
インターホンが鳴る。
モニターを見ると、赤坂と白ヶ崎が一緒に立っていた。二人は何か話している。
赤坂はいつも通り明るく笑っていて、白ヶ崎は少しだけ照れたように視線を逸らしている。
前から仲が良かったみたいに見えた。
「……なんで一緒なんだ」
「ふふっ」
真希那が楽しそうに笑いながらドアを開ける。
「いらっしゃーい!」
「真守、おかえり!」
赤坂が元気よく入ってくる。
「……ただいま、です」
真守が少し戸惑いながら答える。
続いて白ヶ崎が中へ入ってきた。
「真守くん……お疲れ様」
「……ああ」
白ヶ崎の声はいつもより少し柔らかかった。けれど、どこかぎこちない。それが逆に、心配してくれていたことを感じさせた。
真希那は三人をリビングへ案内しながら、楽しそうに説明を始める。
「実はね、この二週間、唯ちゃんと咲音ちゃんが毎日のようにインターホン押して来てくれてたじゃない」
「……あぁ」
「最初はね、二人とも別々に来てたんだけど」
真希那はテーブルに皿を並べながら続ける。
「でも、みんな玄関でばったり会っちゃって。それから少しずつ三人で話すようになって、気づいたら仲良くなっちゃった」
「……そうだったのか」
知らなかった。
真守が部屋に閉じこもっていた間にも、外ではちゃんと時間が進んでいた。
自分を心配して、来てくれていた人がいた。
その事実が、少しだけ胸に重く残る。でも、その重さは嫌なものではなかった。
「真希ちゃん、面白いんだよね」
赤坂が照れくさそうに笑う。
「真守の小さい頃の話とか、いっぱい聞いたし」
「余計なこと話してないだろうな」
「えー、どうだろ」
「おい」
真希那がわざとらしく視線を逸らす。
「まー君の可愛い話しかしてないよ?」
「それが一番怖いんだよ」
白ヶ崎は少しだけツンとした表情のまま、けれど声は柔らかかった。
「真希那さんは、真守くんのことを一番よく知ってる人だって分かったわ」
「……そうか?」
「ええ」
白ヶ崎が真守を見る。
「だから、少しだけ安心した」
「……」
何に安心したのか。真守にはよく分からなかった。けれど、その言葉は妙に優しかった。
「とにかく!」
真希那が手を叩く。
「今日はまー君の復帰祝いパーティーだよ!」
「復帰祝いって……そんな大げさな」
「大げさじゃないよ」
真希那が笑顔のまま言う。
「まー君が学校行ったんだから、ちゃんとお祝いするの」
「……」
言い返せなかった。
テーブルには、真希那の手作りカレーが並んでいた。
赤坂が持ってきたお菓子。白ヶ崎が買ってきたジュース。四人で囲むテーブルは、少しだけ緊張感があった。
でも、生徒会室にあったような息苦しさではない。慣れないけれど、温かい緊張だった。
「いただきます」
軽く手を合わせる。
すると、真希那が当然のように真守の隣へ座った。
ぴったりと。
「まー君、あーん」
「やめろ」
即答する。
「なんで!?」
「なんでじゃねぇよ。自分で食べられる」
「二週間も我慢したんだよ? 甘やかさせてよ〜」
「意味が分からん」
真希那はスプーンにカレーを乗せたまま、ぐいぐい近づけてくる。
真守が避けようとすると、今度は腕に絡みついてきた。
「逃げないの」
「逃げるだろ普通」
そのやり取りを、白ヶ崎がじっと見ていた。
「……真守くん」
「……なんだよ」
「そんなにくっつかなくてもいいんじゃない?」
「俺がくっついてるわけじゃないだろ」
「でも、離れようとしてない」
「いや離れようとしてるだろ」
白ヶ崎はツンとした顔をしている。けれど、少しだけ頬が膨らんでいた。
真守にはそれが何なのか、まだよく分からない。
赤坂が慌てたように手を挙げる。
「ちょっと待って!私も真守の隣に座りたい!」
「先輩まで何言ってるんですか」
「だって真希ちゃんばっかりずるい!」
赤坂が小柄な体で真希那と真守の間に割り込もうとする。
「真守、今日学校で頑張ったよね」
赤坂はまっすぐ真守を見る。
「私、また真守が学校に来てくれて、本当に嬉しかった」
「……」
その言葉に、真守は少しだけ黙る。
赤坂の目は、いつものように明るい。けれど、その奥には本気の心配があった。
「……ありがとうございます」
真守が小さく言うと、赤坂は嬉しそうに笑った。
白ヶ崎も、少しだけ視線を落としてから口を開く。
「……私も」
声は小さい。
けれど、はっきりしていた。
「同じクラスなのに、二週間も真守くんが来なくて……少し、寂しかった」
「……白ヶ崎さん」
「屋上のこととか、まだ辛いと思う」
白ヶ崎は言葉を選ぶように続ける。
「でも、少しずつでいいから……また一緒に過ごそう」
「……」
胸が、少し熱くなる。
真希那が真守の肩に頭を乗せる。
「まー君は、私の一番大事な弟だからね」
いつもの甘えた声。でも、そこにもちゃんと心配が混ざっていた。
「みんなに取られちゃうと寂しいけど……でも、まー君が一人じゃないのは嬉しいよ」
「……」
真守は言葉に詰まる。
三人がそれぞれ違う形で、真守を見ていた。
真希那は家族として。
赤坂は真っ直ぐに。
白ヶ崎は不器用に。
その全部が、今の真守には少し眩しかった。
「……なんか」
小さく呟く。
「変な感じだな」
「変?」
赤坂が首を傾げる。
「いや」
真守はスプーンを握り直す。
「……ありがたいなって」
三人が一瞬だけ黙る。
それから、真希那がにやっと笑った。
「まー君が素直だ」
「うるせぇ」
「真守、照れてる?」
「照れてないです」
「真守くん、耳赤い」
「白ヶ崎さんまで言うな」
三人がくすくす笑う。
真守は少しだけ顔を逸らしながら、カレーを口に運ぶ。
温かかった。ちゃんと味がした。それが、少しだけ嬉しかった。
「……」
生徒会室の重い空気。屋上の冷たい風。上高町子のこと。
罪悪感が消えたわけじゃない。忘れられるわけでもない。
けれど。
今、この瞬間だけは。
目の前の温かさに、少しだけ寄りかかってもいい気がした。
「……」
赤坂が笑う。
白ヶ崎が少しツンとしながらも優しい目を向ける。
真希那が相変わらず甘えてくる。
少しぎこちない。でも、確かに優しい時間。
真守はカレーを食べながら、小さく息を吐いた。
「……うまい」
「でしょー!?」
真希那が嬉しそうに笑う。
その声につられるように、赤坂も白ヶ崎も笑った。
真守も、ほんの少しだけ笑った。
日常が戻ったわけじゃない。全部が元通りになったわけでもない。
それでも。
少しずつ。
本当に少しずつだけど。
戻ってきている気がした。




