26話 俺×罪悪感=消えないです。
上高町子が落ちた瞬間。世界から、音が消えた気がした。
伸ばした手。指先。ほんの少しだけ触れた制服の袖。確かに、感触はあった。
でも——それだけだった。
次の瞬間には、もう何も残っていない。
「……」
風が吹く。強い風だった。屋上のフェンスを激しく揺らし、耳の奥でごうごうと音を鳴らしている。
なのに。
真守には、その音すら遠く感じた。
「……上高、さん?」
自分が声を出したのかどうかも分からない。
フェンスの向こう。遥か下。小さな人だかりができ始めていた。
誰かが叫んでいる。
悲鳴。
怒鳴り声。
慌ただしい足音。
全部、遠い。
現実感がなかった。
膝が震える。力が入らない。その場に崩れるように座り込む。
「……っ」
呼吸が浅い。
うまく息が吸えない。
頭の中では、さっきの光景だけが何度も繰り返されていた。
後ろへ傾く体。
揺れる髪。
そして——
『ありがとう……でも、全てはあなたせい』
「……」
あなたのせいって、なんだよ。
さっきまで話してたじゃないか。笑ってたじゃないか。助かったって言ってくれたじゃないか。
「……なんで」
小さく呟く。
理解が追いつかない。
「真守くん!!」
突然、後ろから声が響く。
バタバタと駆け寄ってくる足音。その音だけが、やけにはっきり聞こえた。
「……っ」
白ヶ崎だった。
息を切らしながら、真守の隣へ駆け寄ってくる。
「真守くん……!」
その顔を見た瞬間。
ようやく少しだけ現実感が戻る。
「……白ヶ崎、さん」
声がうまく出ない。
白ヶ崎はすぐに真守の前へしゃがみ込んだ。
「大丈夫!?」
肩を掴まれる。その手が、少し震えていた。
「顔、真っ青よ……!」
いつものツンとした雰囲気はなかった。
明らかに動揺している。それでも、必死にこちらを見ていた。
「……俺」
喉が詰まる。
「……触れただけだった」
「……」
「助けられなかった……」
言葉にした瞬間。
胸の奥が、ぐしゃっと潰れる。頭の中に、上高の顔が浮かぶ。静かで。目立たなくて。いつもどこか怯えていて。
でも。
昼休み、助けた時だけは少し笑ってくれた。
『ありがとう、楽々浦くん』
あの声が、頭から離れない。
「……っ」
息が苦しい。胸が締め付けられる。
「俺が……」
手が震える。
「俺が、もっとちゃんとしてれば……」
「違う」
白ヶ崎が、すぐに否定した。
「……」
真守はゆっくり顔を上げる。
白ヶ崎は真っ直ぐこちらを見ていた。
「真守くんは、助けようとしてた」
「でも——」
「助けようとしてたじゃない!」
少しだけ強い声。その声に、真守は言葉を止める。
「……」
白ヶ崎も苦しそうだった。多分、ショックなのは同じだ。
それでも。今は、真守を支えようとしてくれている。
「……」
白ヶ崎がゆっくり隣に座り込む。そして、小さく真守の手に触れた。
冷えていた。自分でも分かるくらい、手が冷たかった。
「……あなたのせいじゃない」
白ヶ崎が小さく呟く。
「ちゃんと助けようとした」
「……」
「それだけで、十分よ」
優しい声だった。
いつもよりずっと柔らかい。だからこそ、余計に胸が痛かった。
「……十分じゃ、ない」
震えた声が漏れる。
「助けるって言ったのに」
昼休み。
上高を庇った時のことが浮かぶ。
『俺は上高さんの味方だからね』
そう言った。守るつもりだった。助けるつもりだった。
なのに。
結果はこれだ。
「……俺、何もできてない」
「……」
白ヶ崎は何も言わない。言えないのかもしれなかった。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてくる。その音が、少しずつ近づいてくる。現実が迫ってくる。
怖かった。
下を見れば、もう戻れない現実がある。
「……」
真守はゆっくり空を見上げる。
灰色だった。入学した日の青空とは、まるで違う。
曇っていて。
重くて。
息苦しい空。
「……白ヶ崎さん」
小さく呼ぶ。
「……なに」
「もう少し」
声が掠れる。
「……ここにいてくれるかな」
一人になりたくなかった。
今、一人になったら自分が壊れてしまいそうだった。
「……うん」
白ヶ崎が小さく頷く。
「一緒にいる」
その言葉だけで。
少しだけ、張り詰めていたものが緩む。
「……」
白ヶ崎がそっと肩に頭を預けてくる。
温かかった。
冷え切っていた体に、その温度だけがやけに染みる。
「……」
でも。
どれだけ温かくても。頭の中では、ずっと同じ言葉が繰り返されていた。
——俺のせいで。
——上高さんを助けられなかった。
その言葉だけが、黒い染みみたいに胸の奥へ広がっていく。
消えない。
どれだけ目を閉じても。
どれだけ耳を塞いでも。
上高町子が落ちていく光景だけが、何度も、何度も脳裏に焼き付いていた。




