221話 俺×同行=許可してません。
「楽々浦様と一緒だからぁ」
白彼岸がそう言った瞬間、真守は初めて本気で寒気を覚えた。
夕暮れの商店街、人通りは少なくない。
買い物帰りの主婦や学生達が行き交い、どこにでもある日常の景色が広がっている。なのに、目の前にいる少女だけが、その景色から切り離されているように見えた。
「……」
真守は何も言えなかった。
言葉が見つからない。
白彼岸は相変わらず笑っている。嬉しそうに、本当に嬉しそうに、それが余計に怖かった。
「帰れ」
しばらくして真守が言う。
白彼岸は素直に頷いた。
「帰るよぉ」
「じゃあなんでついてくる」
「帰り道だからぁ」
「どこが」
「分かんなぁい」
真守は頭を抱えた。
葵も横で額を押さえている。
「白彼岸さん」
「うん?」
「本当に家ある?」
葵が聞く。
すると白彼岸は少しだけ考えた。
「あるよぉ」
「どこ?」
「知らなぁい」
「いや絶対知ってるでしょ」
「えへへぇ」
その瞬間だった。真守は気付く。今、初めて誤魔化したと。
今までの白彼岸は意味不明ではあったが、嘘を吐いている感じはなかった。覚えていないなら覚えていない。分からないなら分からない。そう答えていた。
けれど今の笑い方は違う。
「お前今誤魔化しただろ」
「ばれたぁ」
悪びれた様子もなく笑う。
真守は深くため息を吐いた。
本当に調子が狂う。怒るべきなのか、呆れるべきなのか、それすら分からない。
白彼岸はそんな真守を見ている。
ずっと見ている。会話の途中でも、歩いている途中でも、考えている時でさえ。まるで視線を外すという選択肢が存在しないみたいだった。
真守が前を見る。白彼岸は見ている。真守が葵を見る。白彼岸は見ている。真守が振り返る。やっぱり見ている。
その視線には敵意も悪意もない。
ただ、重かった。
「楽々浦様ぁ」
「なんだよ」
「高校楽しいぃ?」
「またその話か?」
「気になってるからぁ」
「普通もっと聞くことあるだろ」
「そうなのぉ?」
本当に不思議そうだった。
葵が小さく息を吐く。
「普通はそうだと思うよ」
「ふーん」
白彼岸は頷く。だが、その後に続く言葉は無かった。
興味を失ったらしい。会話が終わっている。真守は思わず苦笑した。
ここまで会話が成立しない相手は初めてだった。
「なぁ」
真守が聞く。
「改めて聞くけど、俺のことどれくらい知ってるんだ」
白彼岸は少し考えた。
「名前ぇ」
「うん」
「顔ぉ」
「うん」
「同じ中学ぅ」
「うん」
「それくらいぃ」
「本当にそれだけか?」
「うん」
即答だった。
「そんなんで、よく会いに来たな」
「会いたかったからぁ」
「だからなんで」
「分かんなぁい」
やっぱりそこへ戻る。
真守はもう何度目か分からないため息を吐いた。横を見ると、葵も同じ顔をしていた。
「白彼岸さん」
葵が再び口を開く。
「聞きたいことあるんだけど」
「うん?」
返事はする。
けれど視線は真守から動かない。
「楽々浦くんのどこが好きなの?」
数秒。
白彼岸は考える。
本当に考える。
「分かんなぁい」
「好きなんでしょ?」
「たぶんねぇ」
「たぶん?」
「うん」
葵が眉をひそめる。
流石に少し苛立っているのが分かった。
「人を好きになる理由くらいあるでしょ」
「そうなのぉ?」
「普通はね」
「へぇ」
完全に会話が終わりだった。葵の説明も説得も何も届いていない。
「……」
少しだけ怖くなった。
そんなやり取りを続けているうちに、三人は特待生寮の前まで来ていた。
ガラス張りのエントランス、暖かな照明、見慣れた建物、やっと帰って来た。
真守は少しだけ安心する。だが、その安心はすぐに消えた。白彼岸も当然のようについてきていたからだ。
エントランス前、白彼岸はぴたりと足を止める。まるで見えない線でも引かれているみたいに。
そこから先へは進まない。ただ立っている。そして見ている。やっぱり真守を。
「……」
「……」
沈黙。
妙な空気だった。
その時だった。
「楽々浦ぁぁぁぁぁ!!」
聞き慣れた怒声が響く。
真守の肩が跳ねた。
葵も驚いて振り返る。
エントランスから出てきたのは寮母の咲宮だった。
「あんたまた何してるの!?」
「いや違います!」
反射的に否定する。
だが咲宮は聞いていない。
「今度は他校の女の子連れ回して!」
「違います!」
「違わないでしょ!」
「本当に違います!」
完全に疑われていた。
いつものことだった。
白彼岸はその様子を見ていた。しばらく見て、それから、ふわりと笑った。
「楽々浦様ぁ」
「なんだよ」
「怒られてるぅ」
嬉しそうだった。
「お前のせいだろ!!」
思わず叫ぶ。
白彼岸はさらに笑う。葵まで吹き出しそうになっていた。
だが、そこで咲宮の表情が変わった。
最初は真守しか見ていなかった。いつもの騒ぎだと思っていた。けれど改めて白彼岸を見る。
長い黒髪、白い肌、華奢な身体。そして、制服の袖から覗く手首。
咲宮の目が止まる。空気が変わった。さっきまでの勢いが少しだけ消える。
「……」
咲宮は黙った。
白彼岸は気付いていない。
ただ立っている。まるで傷を隠す気が無いみたいに。それが逆に不自然だった。
咲宮は小さく眉をひそめる。手首の傷が気になったのか、それともあの少女の目が気になったのか。真守には全ては分からなかったが、少なくとも先程までの『また楽々浦が問題を起こした』という空気は消えていた。
「あのね」
先程までの勢いはどこへ行ったのか、咲宮は少しだけ声を落として問いかけた。
「家はどこ?」
「あるよぉ」
「帰れる?」
「たぶんねぇ」
「たぶん?」
「うん」
白彼岸は笑う。
「大丈夫ぅ」
その笑顔に咲宮は少しだけ眉をひそめた。
そして。
「今日は帰りなさい」
優しい声だった。叱る声ではない。それは、諭す声だった。
白彼岸は少し考える。
それから。
「分かったぁ」
意外なほど素直だった。
「今日は見つかったしぃ」
意味の分からないことを言う。真守も葵も咲宮も意味が分からない。
けれど、なぜか少しだけ怖かった。
白彼岸はゆっくり後ろを向く。そして数歩歩いたところで振り返った。
「楽々浦様ぁ」
「なんだ」
「またねぇ」
「来るな」
即答だった。
白彼岸は少し考える。数秒、それから嬉しそうに笑った。
「考えとくぅ」
そう言って歩き出す。
長い黒髪が夕暮れに溶ける。
やがて人混みの中へ消えていった。
白彼岸の姿が完全に見えなくなってからも、その場には妙な静けさが残っていた。
夕暮れの風だけが吹いている。
ほんの数分前まで騒がしかったはずなのに、不思議と誰も口を開かなかった。
最初にその沈黙を破ったのは咲宮だった。
「楽々浦」
「はい」
「本当に知らない子?」
真守は即答する。
「知らないです」
それだけは自信を持って言えた。
「名前以外何も分かりません」
咲宮はしばらく黙ったまま、白彼岸が消えた方向へ視線を向けていた。
「そう」
短い返事だった。
「変な子だったわね」
「ですよね」
真守も苦笑する。
「でも」
咲宮は小さく息を吐く。
「あの子、悪い子には見えなかったわ」
真守は黙る。
それは同意できる。
「ただね」
咲宮が続ける。
「放っておいたら駄目な子には見えた」
その言葉に真守は何も返せなかった。
手首の傷、焦点の合わないような視線、妙に噛み合わない会話。咲宮も同じものを見ていたのだろう。
「……そうですね」
それだけ答える。
咲宮は少しだけ真守を見る。
「もしまた来たら私を呼びなさい」
「え?」
「楽々浦一人じゃ話にならないでしょ」
否定できなかった。
実際、話にならなかった。
「まったく」
咲宮が呆れたように言う。
「なんであなたの周りにはこういう子ばっかり集まるのよ」
「俺が聞きたいです」
本気だった。
咲宮は小さく笑う。
「今日はもう休みなさい」
「はい」
「お疲れ様」
そう言い残して咲宮は寮の中へ戻っていった。
残されたのは真守と葵だけだった。女子寮は隣にある。歩いて数十秒も掛からない。
「じゃあ私も帰るね」
葵が言う。
「今日はありがとうごさいました」
「いえ」
葵は柔らかく笑った。
だが、その笑顔の奥には少しだけ疲労が見えた。
流石に白彼岸との会話は消耗したらしい。
「それと」
「はい」
葵は少しだけ真剣な顔になる。
「気を付けてね、楽々浦くん」
「何をですか」
思わず聞き返す。
すると葵は困ったように笑った。
「全部」
即答だった。
真守もつられて笑う。
「雑ですね」
「そうかも」
葵も笑う。
それから小さく手を振った。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
葵は女子寮へ向かう。
数歩進み、一度だけ振り返る。
そしてもう一度小さく手を振ると、そのまま建物の中へ消えていった。
一人になる。特待生寮のエントランスには静かな夜の空気が流れていた。
真守はガラス越しに外を見る。
当然、白彼岸はいない。もう帰った。帰ったはずだ。なのに、まだどこかから見られているような気がした。
長い黒髪、眠そうな目、ずっと自分を見続けていた視線。思い出すだけで妙な寒気が走る。
気持ち悪いと、正直そう思う。怖いとも思う。それなのに、なぜだろうか。本当に少しだけ、あの少女のことが気になっていた。
白彼岸 天音。
同じ中学だったらしい少女。高校に入ってからずっと探していた少女。そして、何も知らないはずなのに会えたことだけを心から喜んでいた少女。
「……何なんだよ」
小さく呟く。
返事はない。
ただ、妙な胸騒ぎだけが残っていた。




